コラム-Vol41 喫茶店

モーニングセットをオーダーするとなんだか得した気分になれる。レモンスカッシュとクリームソーダが人気メニュー。ランチのメニューはナポリタンとカレーライス。席に着くとオシボリと水を運んでくれる。喧騒の世界を離れ、ひと時のリラックスタイム、そんな古き良き喫茶店。

今はオープンカフェに代表されるように、外の世界と一体化させようとしている。また、可能な限り外の景色が見えたほうが人気店になる。そしてほとんどがセルフサービス。コーヒー一杯の料金は200円から精々400円。そこには名物マスターや気前のいいママは存在せず、マニュアルの対応だけが目立つ。

20年前、コーヒー一杯の相場は500円から700円でおもてなしあり。セルフサービスはバブルが弾けてから流行りだした。今思えばこのころから「何事も安いほうがいい」というデフレ現象が始まった気がする。サービスという目に見えず形が無いものに対する価値が認められなくなったのだ。人々の心は余裕が無くなり、世知辛いことも多くなってきた。

「運んでもらうだけで300円余計に払うならセルフでいいよ」。経済的には一理ある話。しかし、「300円で運んでくれて、片付けてくれるなら安いよ」という考え方もあるだろう。要は価値観次第ということだが、問題なのは目に見えないものを認めない事実と300円余計に払える人が払わなくなったという現実。

飲食店も会社も人件費がウェイトを占めるため、そこを削って価格を下げる。そしてこの社会には仕事が氷のようにだんだん溶けて無くなっていく。そんな今、レトロな喫茶店にいるとなんだかとても落ち着く。もてなしている人の心ともてなされている人の一体感のある空気が流れ、外の景色は全く見えないが、日常をすこしだけ離れた空間が心地良い。

知人におもしろい人がいて、一緒に喫茶店に入っても決して自ら進んで注文はしない。私が注文するまでじっと待つ。そして私が注文するやいなや必ず「同じものを」という。ウェイトレスが先にその人に注文を聞いてしまう時もあるが、その時も決まって「この人と同じもの」と私を指差す。店員はあきれた顔で私に注文を確認する。

彼曰く「喫茶店とはくつろぐ所であって、何を飲むかは全く関係ない」。余程嫌いなものでない限り注文はいつも決まって「同じもの」。また、「提供する側のことを考えても同じものを注文したほうが効率いいだろう」ともいっていた。私以外の人と喫茶店に入っても同じらしい。こんな人だらけなら喫茶店にメニューはいらない。奇特な人だ。先日カフェに誘った時、私が「注文は?」とその奇特な人に聞いてみると、「あなたと同じもの」だった。セルフサービスのカフェでは変えてもいいのでは…?

カフェはひとりひとりが中心の多面体。喫茶店は客みんなとスタッフがひとつの空間を共有しているように思う。そんな世界で私はお店の人がやさしく運んでくれるコーヒーをゆっくり味わいたい。そこにいい音楽が流れていれば尚更心地よい…。