コラム

コラム-Vol.23 お田

おでんの「でん」は「田楽」の意味で、野菜やこんにゃくなどに薄い味を付けて長く煮たもの。入る具と味付けは地方によって異なるでしょう。子供の頃、晩ご飯まで空腹がガマン出来なくて、学校帰りによく食べました。そのせいか、当時「おでん」はおやつでありごはんのおかずではないと思っていて、晩ご飯におでんが出るとがっかりもしました。味付けがごはんには合わないだけなのかもしれませんが…。

今では冬の寒い日に、おでんをつまみながらイッパイやるのが楽しみで、数年前に新宿の屋台で常温の日本酒を呑みながらおでんをほうばっていました。屋台の周りは厚手のビニールで囲ってあったので真冬の割には寒さを感じませんでしたが、しばらくしてから店主に、「日本酒におでんのつゆを入れて飲むとうまいよ、お客さん」と勧められ、内心「そんなことないだろう」と思いましたが、飲食に貪欲の私はとりあえず試してみることにしました。普段はシンプルな食べ方、飲み方を好む私は、混ぜるということに反発しますが、この予想外にうまかった味に感銘を受け、それからしばらくは、おでん屋に行くたびにこの呑み方を楽しんでいました。

おでんの他に酒のつまみといえば、「煮込み」(に込み、煮こみ、にこみ)、「肉野菜炒め」(肉やさい炒め、にく野菜炒め、肉野菜いため)。「にく豆腐」「肉どうふ」「肉豆腐」みなさんはどの文字がいちばん美味そうに見えますか?「鯵の開き」「あじのひらき」「アジの開き」の場合はいかがでしょう?「鳥の唐揚げ」はうまそうだけれど「トリのカラアゲ」では注文する気になれませんよね。

「おでん」もひらがな3文字でないと、湯気が立ち、つゆがしみこんだ熱々のだいこんやこんにゃくが頭に浮かばないのではないでしょうか。「御田」と書いたらそれが何か分からないし、「お田」では酒の名前のようで、もし「オデン」と書いたら、おでんのイメージが沸かないし、うまそうにも思えません。

このことは、ビジュアルを重んじるために学習本に写真やイラストをたくさん載せ、また、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字を使い、言葉をまるで絵のように見ている日本人特有の感覚なのかもしれません。

おでんが大好きだという人は少ないが、嫌いだという人もいない。私にしても「何が何でも今日はおでんが食べたい!」とは思いませんが、飲み屋で「おでん」をすすめられると必ず頼んでしまいます。

冬の寒さに対抗できる「おでん」、いろいろな具が入り、見た目も華やか、つゆの染み具合で味も変化して行きます。冬の夜、もし屋台のおでんの具が一種類だけだったら、こんなに寂しいことはありませんよね。

コラム-Vol.22 「TEAM SPORTS」は騙し合い

紅葉狩りにきのこ狩り、読書の秋、食欲の秋、そしてスポーツの秋。スポーツは相手と「勝負」するものと「記録」に挑戦するものの二つに分かれ、また「個人競技」と「団体競技」に分かれる。「個人」+「勝負」はテニス、卓球、バドミントン、柔道、ボクシング、相撲、など。「団体」+「勝負」はサッカー、バレーボール、バスケットボール、野球、ハンドボール、ドッジボールなど。「個人」+「勝負」に「記録」が加わると陸上、水泳、スキーなど。「団体」+「勝負」に「記録」が加わると水泳、陸上などのリレー競技。スポーツ以外で「団体」+「記録」と「個人」+「記録」はいわゆるギネスブック関係。

団体球技のサッカー、バレーボール、バスケットボール、ハンドボール、ドッチボールなどはすべてテクニックは必要だが「騙し合い」のスポーツだと思う。シュートをしようとして切り返す、右へ蹴る振りをして左へ蹴る。スパイクを打ちそうな振りをして相手コートにポトリと落とす。野球の場合は局面での騙し合い、打者はストレートが来るかカーブが来るかを予測し、バッテリーは球種を読まれないようにする。投手と走者が騙し合う、リードと牽制球。数年前、サッカーの国際試合で、某国の某選手のすごい「駆け引き」というか「騙し合い」があった。前日、脚中包帯だらけで車椅子に乗っていた選手が、翌日の試合中絶好調で大活躍。ご記憶の方も多いと思います。

個人競技に必要な技術、体力、精神力、経験、調子に加えてチームスポーツはコミュニケーション、コンビネーション、時には阿吽の呼吸、アイコンタクトが必要。一人だけが調子よくても、調子が悪い人がいても他のメンバーでカバーできるが、個人競技ではフォローすることも、されることもなく頼れるのは自分ひとり。

個人競技の中ではテニス、卓球、バドミントン、柔道などには「駆け引き」も「フェイント」もある。全員が同時にスタートする陸上競技や水泳には駆け引きはあるが、フェイントはない。両方ともないのがシンクロナイズドスイミング、高飛び込み、体操、スキーのジャンプ、スノーボードのハーフパイプやジャンプ、サーフィンなど単独で競技を行うもの。

サッカー、野球、バレーボール、テニス、スカッシュ、卓球、サーフィン、ゴルフ、水上スキー、スキー、スノーボード、スキューバダイビングなど、私もいろいろなスポーツを経験したが、その中でゴルフだけは特殊だと私は思っている。プロのようなショットをして喜んでいたら、次のショットは空振り。本当に不思議なスポーツ。メンタル面がとても重要でゲーム的要素が強い。練習場ではうまく打てるのにコースに出るとそうはいかない。スポーツは練習して経験を積めば上達する筈なのに、何故かゴルフだけは後退もする。

「スポーツ精神に則り正々堂々と・・・」というけれど、実はほとんどが「騙し合い」と「駆け引き」の世界。練習して努力した分だけ緊張する真剣勝負の中で、それがスポーツをより面白くしている。

コラム-Vol.21 やっぱり夏が好き

♪麦わら帽子は もう消えた たんぼの蛙は
もう消えた それでも待ってる 夏休み

冬はまだ遠い、7月20日オンボロクルマで海に行った。途中でエンストしたけどカキ氷食べてしばらく待っていたら直っていた。帰り道、葉出てビーサン買った。やっと家にたどり着いて車止めてイカの丸焼きで生ビール…うまかった。散歩したくなったので、外に出てみたら遠くに聞こえる打ち揚げ花火。音を目指してしばらく歩いた。音がだんだん大きくなって花弁がすこし見えてきた、その瞬間白い花火が空いっぱいに広がり終わってしまった。喉が渇いた。家に戻れば冷えたスイカが待っている。包丁を入れて、ブツッ、バリバリバリッ、かぶりついた。またまた、うまっ!

♪絵日記つけてた夏休み 花火を買ってた
夏休み 指おり待ってた夏休み

やっぱり夏はいい。フトンをかけなくていい。寝るときはパンツ一枚だけ。出かけるときもジーパンにTシャツ1枚。素麺、冷麺、冷やし中華。ショウガにミョウガに冷やっこ。ギンギンに冷えたトマトもいい。

みんな生まれた季節が好きというけれど、私が生まれたのは秋、でも夏がいちばん好き。なぜ夏が好きか?って、それは他に春と秋と冬があるから…。もし日本が1年中夏だったら夏がこんなに好きじゃなかっただろう。夕暮れ時が好き、焼けた肌に涼しい風がふいて心地いい。

♪すいかを食べてた 夏休み 水まきしたっけ
夏休み ひまわり 夕立 せみの声

季節ごと、特に真夏と真冬に毎年唇うことがある。肉体労働は真夏が一番キツイ。寒さは厚着や動けば温かくなるけれど夏の屋外の暑さは防げない。動けば動くほど暑くなる。学生時代、肉体労働のアルバイトをしていた私は、工事現場を見る度ついついこんなことを思ってしまう。冬には、特に雪が降ると、「ホームレスにはキツイだろうなあ」と思う。もし私がホームレスになったら日本の何処に住もうかなあなんてヘンなことを考えたりもする。肉体的には温かいところが楽だろうけれど食べ物がすぐに腐ってしまう。寒いところは(食べ物は長持ちするけど)好きじゃない。それにフトンや毛布、着る物心たくさん必要だ。都会と田舎、どっちにしようかも考える。都会には食堂やレストランの残飯がいっぱいある。田舎は野生の果物や野菜みたいなものが転がっている。都会のほうが雨風を凌げるところは多いはず。最悪の状況に陥ったとき、近くに交番もあるし病院もある。

決めた!秋冬春は都会に暮らして、夏の一時だけは田舎にしよう。ホームレスの友だちも親威もいないのにこんなこと考えるのは私ぐらいだろうか。

♪畑のとんぼはどこ行った あの時逃がしてあげたのに
ひとりで待ってる 夏休み

春は爽やかな新緑の季節、秋は実りと収穫の季節、冬は人や家の温もりが強く感じられる季節。そして夏はしあわせ花火と夢の季節。冬休みや春休みもあるのに、子供の頃の想い出はなぜか夏休み。そして大人になった今牡やっぱり、寒さが厳しい冬上り、こころが大らかになる暑い熱い夏が好き。

♪姉さん先生 もういない きれいな先生
もういない それでも待ってる夏休み

吉田拓郎「夏休み」より歌詞拝借

コラム-Vol.20 雨の効果

「蒸し暑い」「うっとうしい」「洗濯物が乾かない」「道路が混む」など、多くの人は「梅雨」によいイメージは持っていないことでしょう。仕事では、塗装や足場掛け、道路工事など、屋外現場は仕事にならない。雨が降るとアウトドアのイベントや屋外スポーツがほとんど中止になってしまい、室内での暇つぶしを考えてしまいます。

雨が降っていいことってなんだろう。「豊作」「相合傘ができる」「部屋の模様替や思う存分に部屋の掃除や片付けができる」「撮り溜めしてあったビデオがゆっくり見られる」「ほこり被った草花がきれいになる」「仕事で疲れたお父さんが家でゆっくりくつろげる」「水不足解消」。考えてみるとたくさんありますね。徹夜麻雀した翌朝などもカンカン照りより小雨が降っていた方がホッとしたり。

私はけっこう雨は好きな方で(これを言うと「お前変わっているな、根暗か?それともオタク?」なんて言われる)、嵐などのいわゆる荒天も嫌いではありません。なぜなら「雨」は、行動が限られるから落ち着く。屋内娯楽に徹底できる。小雨の中傘をささずに歩いてみるのも意外に気持ちいいもの。さらに「荒天」の場合は家の温もりとありがたさに改めて気付かされる。また、荒天後の静けさもなかなかいい。雨が嫌いな人でも、「嵐」が去った後の晴天の爽快さは感じたことがあるでしよう。

私は少しぐらいの雨では傘を持っていてもささないことがあります。傘を買う時毎回迷うこと、それは値段。私はよく傘を忘れます。出かけるとき雨が降っていて、帰りにやんでいる時など必ず忘れます。「安物で大事にしないからかな?」と考えて数万円という高価な傘を貿ったことがありました。けれどやはり2度目の使用時、忘れてしまった。値段ではなかったのです。

子供の頃、学校が終わったら家にランドセルを放り投げ、すぐに外に遊びに行きました。野球、サッカー、缶蹴り、馬乗り、鬼ごっこ、毎日動き回りました。そして雨が降った日は、しかたなく家の中でトランプをしました。この「しかたなく」が成長するにつれて徐々に「楽しみ」に変わってきたような気がします。「今日はおまえの家でゲーム大会だ!」「明日サッカーができなかったら釣りをしよう!」……「雨」を前向きに捉えるようになったわけです。

雨が降り続き、屋外スポーツがほとんど中止になってしまう「梅雨」、すこしだけ憂欝になるのは否めませんが雨や霧にしっとり濡れたツツジの葉や紫陽花の花びらの清涼感は、憂欝になりそうな気分を洗い流してくれる。そして、「梅雨」が明けたときの太陽は一年中でいちばん輝いて見えます。みなさんは今年の梅雨、どう過ごしますか。

コラム-Vol.19 「ヘンな創作料理」好き嫌い編

以前は無料だった鮭のカマ、みんなその美味さを知ってきたため最近は身の部分より高値になった。イカはゲソとエンペラー(ミミ)が一番ウマイ。捨ててしまう人が多い大根の葉っぱと皮の部分が大好き。昔は普通だった「手作り」が今では貴重な財産で贅沢品。飲み屋で「季節限定」「産地直送」「手作り豆腐」これらの言葉に弱いのは私だけではないでしょう。

豆腐はそのものが充分手の込んだ料理、そのままロにするのがイチバン旨いと思う。普通醤油をかけるが、生姜やおかか、ネギをのせるのも悪くない。揚げ出し豆腐も麻婆豆腐もいい。しかし、ウマイ豆腐をヘンに小細工するのはどうかと思う。手作りの美味い豆腐をあえて不味いものにしている。これは作る人のエゴか勘違いだろう。

「全国のラーメンを食べ歩いて、この味にたどり着きました」という店主。しかし「ハア~ッ、これが?」っていう味が多い。究極の味とは、たくさん食べ過ぎて、何か旨いか、どれが旨いかわからなくなってしまった味なのでしょうか。私も新しいお店と味に多くチャレンジしたが、9割はダメたった。みんな何か勘違いしている。

食材で「何々と何々を一緒に食べると旨いよ」、これはほとんどマズイ。「たまには変わった食べ方しないとね」と前向きに考えチャレンジする気持ちは買うけれど、これもほとんどマズイ。サンマは塩焼がイチバン旨い食べ方だから長年食べられているのに、カレー味や、トマト味を作るのはナンセンス。イタリアで、ワインを飲みながらトマトソース味でサンマを食べる、東南アジアではカレー味にする、気候や風土によって味覚が異なる。オリオンビールは沖縄に合う、しかし東京ではイマイチ。その土地に行って食さないと本当の旨さはわからない。

私は好き嫌いが全くない。子供の頃嫌いだったものも今では好んでロにする。ミョウガ、セロリ、パセリにパクチ、クサヤに海鼠腸。また、最初に食べたとき「旨くない」と思ったが何回か口にして好きになったものもある。食べ物の好き嫌いは「慣れ」も大きい。だから1度口にしただけで「これはマズイ」と言ってはいけない。何度食べてもマズイと思ったら「私の口には合いません」と言うように心掛けたい。

好き嫌いのある人の話しを聞くと、嫌いな理由が概ね3つに分かれる。その1「食べたことがない、食べる気がしない」。その2「食べたが美味くなかった」。その3「食べたあと具合が悪くなった」。以下は好き嫌いのない私の個人的な意見、まず、その1の場合、食べられない物の数だけ損をしていると思う。その2の場合、味付けが悪いか、新鮮でないか、運が悪いだけなので再チャレンジしたほうがよいでしょう。その3は鯖や卵など、アレルギー反応を起こす人がいるから仕方ない場合が多い。

「何を食べるかではなく、誰と食べるか」、確かにこれは大事なこと。しかし、先日大切な人と食事をする機会があったが……マズイものはやっぱり不味かった。

コラム-Vol.18 珍商売・・・大道芸人は意外とキツイ

日が沈むとカラカウア通りの歩道に現れる「新聞紙男」「銅像男」「ゴールドマン」「シルバーマン」。基本的には動かないが、チップ(コインはダメ、紙幣に限る)を入れるとロボットのように動き出す。他にはひたすら弾いている「ギター男」、やはりチップを払うと叩きだす「ドラム男」、テニスボールのようなものを何個も操る「ジャグラー男」。この人たちは、何を求めているのだろう。故郷に帰るお金を稼ぐため出没するのだろうか。しかし「銅像男」「新聞紙男」の目的はそれとは違う、理由は、何年も前からずっといるからだ。カラカウア通りには他にも「似顔絵師」「スプレー絵画師」など、いわゆる芸術家もいる。何故だか女性は見えない。

こういう人をみるといろいろなことを想像してしまう。日本のように場所代は払っているのか?一日の稼ぎはどのくらいだろう?じっとしているときはなにを考えているのだろう?ここにいないときは何をやっているのだろう?果たして何者?警察はこの人たちをどう考えているのか。黙認しているのか。奨励しているのか。街ぐるみで自治体としてやっているのか。出来れば、彼らの準備と撤収の場面を見てみたい。そしてどこに帰るのか。住居は?食生活は?

「身体にペンキを塗ってただじっとしているだけでチップが貰えるなんて楽だな~」と思っている方も多いと思う。しかし、私が予想するにかなりキツイシゴトだ。何もしない、何も喋らないというのは案外ツライもの。工事現場の誘導員は人や車が来ないほうが楽そうに見えるけど、返ってそのほうが手持無沙汰で疲れると思う。単純な仕事ほどただただ時を(休憩時間、昼休み、仕事の終了時間)待つ、従って時間がとても長く感じる。ある意味で充実していないってことかな?適当に人や車が来てくれた方が、やりがいがあるし、ほどよく時が過ぎ、そして疲れない。「身体」か「頭脳」か、どちらかをほどよく使っていた方が心地いいものだ。

私事だが、学生時代みんなに「楽な仕事だね」といわれたアルバイトをしたことがある。「一日中宣伝カーに乗る仕事」。音楽をバックにお店のPRの喋りを吹き込んだテープを流して、街中を時速15Kmで、一日中道路の左端をひたすら走る。その時のバックミュージックは今でもよく覚えている。タラタタンタンタン~…♪~…♪。国道、県道、時には畑道。これが楽そうに見えてけっこうキツイ。他のアルバイトより日給が良かったので応募してみたけれど、働いて初めてわかった。当時の肉体労働が一日5,000円程度に比べ、宣伝カーのアルバイトは7,000円。40日同通して働いて280,000円、その半分をバイト最終日の翌日にストレス解消のため使ってしまった。もうひとつのバイトは農作物の数を数える仕事。梨畑に行って1本の樹に梨が何個なっているかを数える、田んぼに行って1本の稲に穂が何個付いているかを数える。いいかげんにすればできる仕事だけれど、一個一個一生懸命数えた。時を充実させるためには「のめり込む」ほうが楽しいと思ったから…。

コラム-Vol.17 ありがた迷惑

知り合いの食堂に入って、鯖の塩焼き定食を頼んだらサービスで納豆を付けてくれたが、私は納豆が食べられない。コンビニで弁当を買ったら頼んでもいないのに温めてくれた。漬物か温まってしまうし、冷たいご飯が食べたかった…。梅定食を畷んだら松定食が来た。交通渋滞で「お先にどうぞ」と言ってくれたクルマに1分後追突された。引越を手伝ってくれた友だちにシコタマおごらされた。美容室で寝ていたら勝手に整髪料を付けられた、家に帰って寝るだけなのに…。小雨の中歩いていたらクルマで通った知人が駅まで乗せてくれるというので乗ったら、渋滞にはまってしまい会社に遅刻した。「ありがた迷惑とは」…相手のために良いと思うこと、相手に喜んでもらえること、相手が望んでいること、を確認しないで提供するサービスで、そのサービスの評判が結果的によくないこと場合によっては「余計なこと」になってしまう、しかし本質は「思いやり」があっての行動であることも確かだ。

私の最近の「ありがた迷惑」経験は、日本代表サッカーの試合を、たまたま会議で見られなかったので、帰り道にいつも聴いているカーラジオを消して、外からの情報を遮断しておいた。帰ってからドキドキしながらビデオで試合を見たかったから。しかし携帯電話はONのままだった、うかつだった。サッカー好きの友だちはいつもなら「見た?」って聞いてくるのだけれど、そのときだけは追って、「はい」という私の声も確認せず、第一声が「よかったな、3-0で勝ってさあ、オレもうれしいよ」だった。続けて「あの2点目はさ…」と言い出したところで話すのを止めた。どうやら私が無言だったので気持ちを察したらしい。「こいつ余計なことを言いやがって」………口には出さなかった。「そうかよかったな、じゃあこれから帰って、ニュースで見るよ」と言った。友だちは、「あれれれ、見てなかったの???悪かった悪かった、じやあ帰ったら楽しんで見てよ」。私はサッカー好きなので試合の結果がわかっていてもそれなりに楽しく見られる、しかし楽しみは半減。友だちは、私がリアルタイムで見ていると信じて疑わず、喜びを分かち合い、さらに盛り上げようと思って電話してきたに違いない。

15年程前に発展途上国の国を訪れた時のこと、その国には100円ライターが存在しなかった。ひとりの現地の人がとても親切にしてくれたので、帰国するときお礼にと100円ライターを置いてきた。便利だろうと思い「いいだろう」と言わんばかりに白慢げに渡した。その時その人はとても喜んでくれた。しかし私は帰り道、「もしかしたら余計なことをしたのかなあ」と思った。100円ライターのガスがあるうちは便利なものだと思うだろうけど、ガスがなくなったらただのゴミ。そこでは100円ライターは売っていないので買えない。そして「元の生活に戻るとき、以前より火を熾すのに苦労するだろう」と。世の中が便利になっていくということは、人が不器用になっていくことを意味する。私が渡したあの100円ライターは「ありがた迷惑」だったのかもしれない。

コラム-Vol.16 ラッキーとアンラッキーは紙一重

食堂に入ったら自分の好きなメニューがあった(ラッキー)。しかしそれは腹が立つほどマズかった(アンラッキー)。チケット売り場の列に並んでいたら前の人で売切れてしまった(アンラッキー)。しかしその屋外コンサートは当日台風で中止になっていた(ラッキー)。

先日、知人が泥棒に遭遇した(アンラッキー)。といっても当の本人は相手の顔を見たわけでも声を聞いたわけでもない。酔っ払って駅のベンチで寝てしまい、起きて気付いたら背広の内ポケットに入れてあった財布が無くなっていたのである。散々飲み歩いた後だったので、幸い現金はたくさん入っていなかった(ラッキー)が、キャッシュカードが何枚か入っており、慌てて残高を確認したときにはすでに後の祭り。免許証も入っていたため泥棒は暗証番号を容易に察することができたのだ(アンラッキー)。以前なら夜中にキャッシュカードを使えなかったが、今はコンビニで24時間使える。便利になった反面、リスクも増えた。

泥棒は許し難いが、多少なりとも本人にも落度はある。酒を飲むのは自由だし、酔って電車で帰るのも自由。しかし、駅のベンチで寝てしまうということになると話は別。東京でも真冬の時期は凍死してしまうことも充分あり得る。駅員にも迷惑をかけるし、泥棒に遭ったら警察にもお世話になるし、家族や友人にも迷惑をかけてしまう。

幸い私は泥棒に遭ったことがない(ラッキー)。大金を落としたことは2度あるが、1度は戻ったらまだその場においてあって(ラッキー)、もう1度は拾ってくれたひとが届けてくれた(ラッキー)。お金を拾ったこともない。いや、1度だけ10円玉を1個拾って、近くの神社の賽銭箱に入れたことがあった。それから競馬などギャンブルで大儲けしたこともない(アンラッキー)。宝くじに当たったこともないので、友達付き合いもずっと変わらず良い関係を続けられている(ラッキー)。

運は毎日すれすれのところを通り過ぎる。旅先で電車に乗り遅れて観光名所を見られなかった、交通渋滞で大事な仕事に遅れてしまい契約をとれなかったなど、旅先でトラブルや意外な展開があると、不安になったり戸惑ったりと、その場がしらけてしまう。でも、無事家に帰ってくればすべて笑い話に変わってしまう。いや、かえって少々のトラブルがあった方がよい思い出になるかもしれない。仕事の場合、トラブルを解決したときは今まで以上の信頼を得ることもある。運とは予測できないものだが、準備と予想である程度変えることができる。

運は結果論。知らない間に誰もが経験していること。仕事でもプライベートでも、前向きに考え、行動したい。そして予測と準備、心構えと気持ちの切り替えで、アンラッキーをラッキーに変えられるような人になりたい。

コラム-Vol.15 人は見かけによらず・・・

「あの人は呑みそうだ」実はまったくの下戸。「あの人は見た目が派手だ」実は私生活が地味。人は見かけによらぬもの。中身と外見、反比例。大柄な人より小柄な人の方が気が強い。華やかな舞台で輝いている人が糠漬けを漬けている。おとなしそうな女性がでっかいバイクを乗り回す。痩せている人ほど大食漢で力持ち。皮のソファーに座ってブランデーを飲みそうな人が実はコタツで芋焼酎。遊んでいそうに見える人ほど実は一途な恋を求めている。明るく振舞う人ほどさみしがりや。喋る人ほど人見知りをする。人を判断するとき、見た目と反対だと思えばほぼ“マチガイナイ”。

見た目と反対と言えば苦い経験がある。5年前の旅先で、美しい風景とそこに居合わせた素朴で美しい少女があまりにもマッチしていたので写真を撮りたいと思い、そのおとなしそうな美少女に「写真とってもいいですか」と聞いたところ、「ふざけんな、このやろう、金取るぞ」と言われた。以来女性に「写真を撮らせてくれ」と言わないようにしている。

双子の兄弟に「どっちが兄貴かわかる?」と聞かれたら、老けたほうを弟と言えばまず的中する。色の薄い「関西うどん」より、色の濃い「関東うどん」の方が、塩気が少ない。内外装に拘り洒落た居酒屋より気取らない飲み屋の方がうまいものがある。ラーメンよりサンドイッチの方が高カロリーである。朝から暗いニュースが流れているときほど世の中平和。なんだかト○○アの○○○みたいになってしまった。但し、これらは雑学でなく、当然科学的また医学的根拠もなく、また統計をとっているわけでもなく、あくまで私の個人的な見解ですので発言に対しての責任は持ちかねます。

見た目が話しにくそうな人が親しみやすかったり、怖そうな人が優しかったりする。「予想通り」より「意外だなあ」の方が、刺激があって魅力的。一般的には、「冷たそうに見えて実は温かい人」を好む人が多いが過去に一人だけその反対の女性がいた。「わたしの好みのタイプは…見た目が温かそうで、実は心が冷たい人です。」とてもマニアックな人だなあと思った。見た目と反対に魅力を感じているところは同じだけれど…

美人はパートナーの容姿に拘らないが、そうでない場合は容姿にとても拘る。背の低い女性は背の高い男性を好み、大きな女性は相手の身長に拘らない。男性は力が強く、女性はハートが強い。「人は見た目と反対」これらはすべて、世の中が偏らないように、人はみな本能的に融合のバランスをとっているのでしょうか。

コラム-Vol.14 祭り

1.神霊に奉仕して、言を慰めたり、祈ったりする儀式。
2.記念・祝賀などのために行う行事。3.商店がある時期に行う特売宣伝。

夏の風物詩、花火。それはたまたまだった。元来「祭り」には豊年万作とか疫病を追払うといった「願い」や、「供養」など、人の心が込められていたりする。夏に祭りが多いのはそのためで、元々「厳かなもの」だったのではないだろうか。「隅田川」が東京でいちばん有名な花火大会だと言われているが、やはり始まりの経緯は夏の疫病を追払う順いがあったそうだ。隅田川の花火に限ったことではないが、そういう「祭り」は、当初の目的とは別に最近では「楽しいイベント」になっているものも多い。私も子供のころは祭りの目的や歴史など考えもせず、ただただ単純にはしゃいでいた。「やきそば」「たこやき」「金魚すくい」「綿アメ」に「お面売り」。人が集まり、楽しそうにしているのを見るだけで心が躍り嬉しかった。

花見は今も昔も「俸く美しい桜の花を見ながら遊び楽しむこと」。花火はもともと厄払いの儀式だったものが単純に「花火を見て遊び楽しむこと」に変化した。花は自然の美しさ、反対に花火は人工の美しさ。よって花火はその技術と芸術性を競い合う。共通する魅力は一瞬の儚さだろう。消えてしまう尊さ、潔さ、そして夢。

もともと人はさみしがりやで、昔から何かにかこつけて集まり遊び楽しんだ。地元の人たちだけの楽しみであった「祭り」がロ伝えで広がり、やがて噂を聞いて遠方からも駆けつけるようになった。そういうお祭りは「願い事を叶えてくれる神がいる」「大きな神輿が練り歩く」「屋台がたくさん出る」「男らしさを示す儀式がある」など、多様である。

吉田拓郎の「祭りのあと」という歌がある。「祭りのあとのさみしさは、いやでもやってくるのなら…」と始まる。祭りには家族、親戚、友だちが集まり、飲んで食べて語らい、楽しい時間を過ごす。でも、だからこそ終わったあとが寂しいし、切ない気持ちになる。私は子供の頃、遠足や旅行の帰りにも、なぜか切なく空しい気持ちになった。今でも同じ感覚になるときがあるが、この不思議な感覚はなんだろう。現実に戻る反発心か、みんなと別れるさみしさか、無邪気に遊んだ充実感か。

釣り糸が絡み合うことを「おまつり」という。普段いろんなことをしている人たちがひとつの目的のため、いろいろな形で絡み合う儀式「お祭り」から来ているのだろう。
豊作になったことを喜ぶ「お祭り」と豊作を祈る「お祭り」がある。

日本中、世界中の「お祭り」を見てみたい。そうすれば、その地域の自然環境、人間関係、作物、天災、食文化・・・歴史のすべてがわかるような気がする。