コラム

コラム-Vol.33 沖縄…離島編

とまりん港から座間味行きのフェリーが出港するのは午前10:00。5月下旬は梅雨のシーズン、比較的空いているというので船の予約もせずに港へ着いた。バイクと共に船に乗り込む。出港のときは必ず「蛍の光」が流れるものと思っていたら、期待を裏切り静かに船は動き出した。客室は本島から帰省する人や、仕事に向かう人でにぎわっていた。一人旅の退屈を感じないまま11:30阿嘉島に到着…港まで宿の人が迎えにきてくれていた。着いた日は午後から雨。島に一軒だけあるパーラーへそばを食べに。(そこから4日間続けて同じ店での昼食は初めての経験)そして胃に納まる暇もなく、沖縄本島から乗っていったオフロード用のバイクで島の一周を試みたが、雨が降り始めたため部屋に戻り、その後叩きつけるような雨の景色を部屋の中から暗くなるまで眺めていた。

翌朝からうその様に晴天が続いた。兵庫県出身のダイビングガイドが阿嘉島ならではのポイントに連日連れて行ってくれた。ガイドは「腰が痛い」と繰り返していた。数日後に行われるバレーボール大会の練習が原因で。島対抗で行われるこの大会は、とても熱く盛り上がるそうだ。毎年持ち回りで会場が変わり、今年は慶留間島での戦い。パチンコやカラオケ、ゴルフ場もないこの島の熱いゲームを通じて本来の地域社会を築く。理屈抜きのうらやましい光景と思えた。

青い海と空だけの世界、ボートの上にはガイドと私だけ、近くに見えるのは無人島。窒素抜きインターバルの間、ボートに仰向けになってゆらゆら揺られていると、都会での喧騒を忘れ、自然に生かされている自分に満足していった。海とサンゴとサカナ、その美しさに2日間の予定が3日続けて潜ってしまったのである。

島の人口およそ300人と慶良間シカ。島には飲み屋が2軒だけ、内1軒は私が滞在した3日臨時休業、必然的に残りの1軒に3晩とも世話になった。開店は19時と聞いていたが、初日は20時30分まで待たされ、いきなり“島人タイム”を経験。宿の食事を断ってしまっていたので、私には待つ以外の選択肢がなかった。島人は、知らない私にも挨拶してくれた。最初はすこし戸惑ったが、何度か繰り返すうちに自ら先に挨拶するようになっていた。

本島に帰る前の晩、宿のご主人と泡盛を酌み交わし、慶良間諸島と沖縄の歴史、そして環境の話をじっくり聞いた。古く貿易船の船長は慶良間諸島の人たちだったこと。神戸や横浜など大きな港近くに必ず中華街があるのは、ある意味来訪者を歓迎しなかったから。そして那覇の港付近に中華街がないのは、沖縄の人々が持っているWELCOME精神で来訪者を優しく迎えたからで、固まることなく誰もがこの島この街に溶け込んでいき、独自の社会を形成する必要がなかったということ…

この島の仕組みが世界平和と環境保護に繋がり、この島の教えが日本の宝と成っていけばと思いながら島を後にした。

コラム-Vol.32 こだわり

「かき揚げ」「板わさ」「だし巻き卵」にお銚子一本。〆にもり蕎麦一枚。蕎麦屋はその昔から食堂の元祖であり、酒呑みの原点でもある。今では「蕎麦屋で一杯」は粋な飲み方。

「三たて」とは「挽きたて」「打ちたて」「茹でたて」、これに「摘みたて」が加わると「四たて」という。最初に何もつけずにそばを一本、次に蕎麦にワサビをのせて数本すすり、それから蕎麦をつゆに3分の1程つけて一気にすすり、休まず食べきる。私は蕎麦についてさほど知識は無く、そば食いとは言えず単なる「そば好き」。

数年前の秋の日、長野の有名な「そば屋」を目指し4人で車を走らせた。その店の昼のオーダーストップは13時ということは知っていたし、時間内に到着できるものと確信していた。ある場所までは…。そのそば屋は山奥にあり、地図にもナビにも出ていないような細い道を通らなければならない。その最後の細い道に入るところが分からず…結局道に迷ってしまったのです。

着いたのが13:05、店に駆け込み「まだいいですか?」、当然「いいですよ!」という答えが返ってくると思い込んでいたところ、「すみません、終了しました」素っ気無い返事。「ここのそばを食べたくて、東京から来たんですけど…」自分でもいやらしいとは思ったけれど、空腹と欲望がプライドを上回り一言出てしまった。仕事なら更に粘るところが、考えてみれば一度の昼食に過ぎない。大人気ないことはやめて「わかりました」と言って店を後にした。

4人とも朝からずっと蕎麦腹、それを急にラーメンやヤキソバには変えられない。(誤解がないように付け加えておきますが、私は麺好きで普段はラーメンもヤキソバもうどんもスパゲッティもよく口にします。)

「どうする?」こういう時は一人でも反対者が出ると、そばに対するモチベーションは極端に下がるが、幸いにもみんなポジティブな人間だった。「戸隠に行こう!」…私が言った。

地図を見ると30~40分かかる。自分が言い出したものの、それまで空腹を保てるか心配だったが、どうにか目的地に到着。何軒ものそば屋が建ち並んでいた。どこに入ろうかとすこし迷いながら一番地味な構えの店に入ってみた。舞茸の天ぷらともり蕎麦をオーダー。「うまいほうだね」そこそこ満足していたが「せっかくここまで来たのだから」と食に貪欲な4人はもう一軒、次に一番立派な店構えのところへ。同じく舞茸の天ぷらともり蕎麦を口にする。2軒とも合格点。みやげ屋でそば笊を買い帰途に着いた。

蕎麦好きが転じ、サラリーマンから蕎麦屋を始める人もいますが、私は全くそういうタイプではないので、これからもずっと食べる側に徹したいと思います。コシのある十割の中太麺に辛めのつゆ、ワサビとネギは入れずに、蕎麦を半分つゆにつけて一気にすする。最後にワサビとネギをつゆに入れ蕎麦湯で割って呑む。これが私の?いや、そば好きのマニュアルです。

コラム-Vol.31 大きな木

朝4時に起き、予約しておいた弁当をふたつ持ち、登り始めたのは夜明け前の6時。30分程歩くと右手の山あいに太陽が顔を覗かせた。それから15分、学校跡地を左にカーブした後の休憩所でおむすび弁当を口にした。2時間以上トロッコ道を延々と歩き、さらに険しい山道を2時間以上、そして…

まっすぐ伸びていなかったゆえに伐られず長年生きてきた幸運の木。「お前もわざわざ遠くからオレに会いに来たのか」と言わんばかりの堂々たる存在感、何千年も生きてきた風格、自然現象さえも太刀打ちできない力強さ。オーロラや大海を見ると己の小ささを実感するが、この木には威圧感はなく、返って安堵感が私を包み、そして夢も膨んだ。

山道を登るにつれて呼吸が乱れ、太ももとふくらはぎがはってきた。あと少し、もう少し、幾度となく休んだが、山登りの経験がなかった私でも、一度たりとも引き返す気にはならなかった。途中で出会った翁杉、運良く居合わせたガイドの話によると樹齢2,000年、次のガイドは樹齢2,500年と言う。しかし私にはその500年の差なんてどうでもよかった。縄文杉は専門家の見方により同じものでも樹齢2,500年~7,200年の大きな開きがあり、幹の中の空洞部分に対する考え方の違いでこれだけ年齢の差が出てしまうらしい。森の仕組みと歴史の情報は欲しくても、自分のペースで歩き、五感で感じるものを大事にしたかったので、私はガイドを付ける気にはならなかった。

屋久島の森はアドベンチャー&ワンダーランド、そしてコケの芸術。縄文杉を目指す前日、足慣らしに歩いた白谷雲水郷はまるで童話の世界。数千年生きている木、蔓がねじり鉢巻のようにからみついた大木、再生木、屋久シカに屋久サルも…。水が澄み、空気が澄み、ゴミひとつ落ちていない神聖な場所。

縄文時代を想像し数千年の力をもらい下山、途中で湧き出ていた水を口にすると元気が出た。しかし、1時間くらい歩くと膝が痛み出す。縄文パワーは心に沁み込んだものの、体にはすぐに効き目がなかった。単に私の体力の問題か…。2つ目のお弁当を終わらせた後、急な山道を下りきり、元のトロッコ道に出たころは足の痛みも消え、それからは快調に歩くことが出来た。途中で汲んできたペットボトルの中の湧き水に木漏れ日が差し込み、キラキラ輝いていた。トンネルを抜け出発地点の建物が見えてきたとき、経験したことのない満足感が汗と一緒に噴き出した。

ウィルソン株は、中に入ると10畳ほどの、ちょっとしたリビングルームの広さ。見上げると、自然が創ったハート型の天窓に感動、ずっとこの形が変わらないで欲しいと願った。映像でも、写真を何百枚見せてもこの感動は伝えきれないだろう。往復10時間の道のり、縄文杉は私の心をとてつもなく大きくしてくれた。

コラム-Vol.30 群馬のばあちゃん

国道20号「平川」の信号の先、右側にあるガソリンスタンドをうっかり通り過ぎてしまった。戻ろうか、次にしようか一瞬迷ったが、戻ることが嫌いな私は結局次のスタンドに入ることにした…
「満タンおねがいします!」「日光からの帰りですか?」「いや、片品からの帰りで、この先のドライブインで味噌を買って、それから家まで帰るんですよ」そのとき何故私はガソリンスタンドのお兄ちゃんに、味噌を買うことを伝えたのだろう。特に意図はなかったが、心の奥で味噌情報が欲しかったのかもしれない。

「味噌なら尾瀬市場の右から三軒目に、元気のいいおばちゃんがやっているお店がいいですよ。他にも手作りのものがいろいろあって、どれもうまいですよ!」スタンドを出ると早速私はその市場に向かった。市場には物産店が4軒と食堂があった。その店はどこ? とキョロキョロしていたら、ひとりのおばちゃんが目に入った。「味噌ありますか?」と尋ねてみたが、「あっ、はい」と気のない返事。その左側の店にもうひとりのおばちゃん発見!「味噌ありますか?」と言うと、「あるよ! あるよ! ばあちゃんが作ったうまい味噌あるよ!」…「ここだ!」と確信した。顔はしわだらけ、そして赤みを帯びた頬っぺたを見ると、「農産物」+「手作り」=うまい、の方程式が見えた。この人が作っているのなら間違いない。

店内には、家族連れと思しき人たちが8人ほど食事をしていた。客のお父さんが「休日にここにきて昼ごはんを食べるのが楽しみで、となり町からそのためだけに来るんだよ」と私を見ながら自慢げに話した。「ここの店は午前中、それも早めに来ないとダメだよ、品物がなくなっちゃうからさ」とアドバイスももらった。

このおばあちゃん、私が買おうとすると必ず「味見してみて」と言う。「作ったものに自信はあるけど、味には好みがあるからさ」だそうだ。納得して買ってもらいたいのであろう。産地を偽ったり、誇大表示して売ったり、ましてや楽して売ることなど全く考えていない。職人の模範、商人の鑑だ。

唐辛子味噌を口にしてみた。予想通りの美味さだったが、やがて辛さが効いてきて「ひぃ~」と言うと、おばあちゃんは「そんなに一度に食べたら辛いよ、これ一緒に食べて、ハハハッ」と、でっかいおにぎりを差し出してくれた。先程のお父さんは「キュウリも合うよ、食べるかい?」。なんともほのぼのした雰囲気、これも一種のスローライフ?

味噌、唐辛子味噌、玉ねぎの漬物を手に、代金を払おうとすると「全部で2千円でいいよ、ハハハッ」と言う。確か2,500円のはず? すべて手作り、労力はおばあちゃん自身、だから代金も気持ちで決めているようだ。「悪いね」と立ち去ろうとしたら、「これ一個持っていってよ」と特大のキャベツ。「バイクだから積めないんだ」「そうか、ならこれ持っていきなよ」と500円とマジックで大きく書いてある袋に入ったラッキョウをくれた。「ありがとう、すまないね」、「いいよいいよ、ハハハッ」とおばあちゃん満面の笑み。

最初のスタンドに入り損ねたことからこの展開。出会いとは不思議なもので、何が幸いするか最後の最後までわからない。もし最初のスタンドに寄っていたら、あのおばあちゃんに出会うことはなかったのだろう。そしてあの味噌も一生口にすることはなかったかもしれない。また別な季節におばあちゃんに会いに行ってみよう。

コラム-Vol.29 由紀ちゃん

由紀ちゃんは50年以上前に島に渡ってきた大五郎と花子の孫。三郎という兄貴と五郎という弟がいる、平成元年生まれの19歳。性別はもちろん女性。水風呂が大好き。人間の歳だとおおよそ60歳らしいが、未だにとてもキュートな顔立ち。住民票は由布島で、西表島と由布島を一日7時間、何度も往復する。大柄な仲間は20人乗せるが、比較的小柄な由紀ちゃんも16人を乗せ、暑い日差しの中で無言で車を引っ張る。時速1.5キロ、決して急がない、なんともスローな足取りだ。何を考えながら歩いているのだろう、へんなことを思いながら私は乗っていた。あまりにも重たそうなので降りて後ろから押してやろうかとも考えた。突然、おじい(船頭さん)が三線引いて歌い始めた。すると客も一斉に歌いだした。周りのみんなはその歌を知っていた。…私だけが取り残された。

渡り出してから15分、周囲2.15キロで4万坪、海抜1.5メートル、住民は15人と大五郎一家とその仲間、パラダイスガーデン由布島にやっと着いた。道のりは400メートルの引き潮の海。しかしそれはまっすぐ歩いてのこと。由紀ちゃんはカーブを描きながら前進するので距離は2割増だったろう。そして途中で必ず一度立ち止まる。体の自然現象のために…。由布島は全体が砂でできている亜熱帯植物園。私は島をのんびり1時間歩いてみた。途中東海岸沿いのカフェで立ち止まるとオリジナルアイスクリームの文字が目に入った。いちばん自信があるのは?と店主に尋ね、「泡盛アイスクリーム」を勧められたが、予想外に美味だった。それから小学校跡と大きなガジュマルの木を横目に見ながらリュウキュウイノシシ、オオゴマダラチョウ、クジャク、ヤギ、七面鳥、ポニー、コンゴーインコ、由紀ちゃんの仲間に次々と挨拶をして回った。台風の後いなくなってしまったリスザルに会えなかったのが悲しかった。乗り場に戻ると、来るときはせいぜい15センチだった水かさが、1メートルほどに増していた。

帰り道は由紀ちゃんの後輩に引かれていた。対岸から仲間達と一緒に由紀ちゃんがやってきた。潮が満ち始めたルートを誰と競うこともなく、先程より更にゆっくりと渡っている。彼女が渡り切るまで私の目は彼女から離れなかった。

由紀ちゃんの健気な仕事ぶりは、沖縄で見たものの中で一番の感動、そして南の島のスローライフを大いに感じさせる貴重な経験だった。

また行くことがあれば、是非、由布島の由紀ちゃんを指名してみよう。

コラム-Vol.28 四季

春には春の花が咲きます。私たちは四季があることを当然だと思っています。寒いのが苦手な私は、常夏の国の人たちがうらやましくなります。それは、寝るときに布団がいらない、短パンTシャツで暮らせる、洗濯物が少ない、靴下を履かなくて済むなど、面倒なことがないからです。しかし日本が常夏になることは望みません。やはり私たちは冬があるからこそ春や夏が待ち遠しくなり、暖かい季節を思いきり楽しめると思います。

地球上には一年中裸同然で暮らしている常夏の国の人や、一年中毛皮を着ている極寒の国の人がいます。これらの国にもきっと四季のようなものがあり、それなりに楽しんでいることと思います。私たちにはそれを感じることはできませんが……

初ガツオに春野菜、スイカにカキ氷、くだものに秋野菜、熱燗に鍋料理。最近は食品技術の発達により、季節に関係なくさまざまな野菜や果物を口にすることが出来るようになりましたが、味のないトマトや香りのないきゅうりは目を閉じて口に入れると何を食べているのかわからないことがあります。やはり季節に合ったものを食べたほうが間違いなく美味しい筈です。ファッションも四季折々で、四季がない地域の人たちに比べると4倍楽しんでいるのかも知れません。興味のない人にとっては衣類代の負担が大きくなるでしょうが…。

北海道の人が冬の東京に来ると、家の中の寒さに驚くそうです。また、北欧の人から日本の方が寒いと聞いたことがあります。寒い地域の家の中はずいぶん暖かくしているようです。

東京は寒くなっても滅多に氷点下にはなりませんが、冬場のゲレンデはマイナス10度以下になります。しかし私は東京の方が寒く感じてしまいます。先日、青森出身の知人から教わったのですが、雪を見ると「寒い」ということを最初に視覚で感じ取り、次に肌で感じる。その時体はすでに寒さに順応しているのであまり寒さを感じないとか。東京は雪がないので、直接体で寒さを感じてしまうらしいのです。納得!!でした。動物と同様に人も季節の変わり目を迎えると心も体も次の季節への準備をします。すべての生物は自然に順応しているようです。

一般的に、寒い季節を「苦しみ」や「我慢の時」、暖かい季節を「楽しみ」や「発散の時」と例えています。また、春は新芽が出ることから、物事が好転することを意味します。

5月に入りすべてが鮮やかに映り、いたる所で花が咲き乱れ、鳥たちも元気に飛び回っています。そして私たちの夢も叶いそうな気持ちになります。

朝顔は数時間、桜は一週間の開花。ふたつとも私たちが好きな花です。
儚い(はかない)という字は、「人の夢」と書きます。これが日本人の心の奥底にある美学なのでしょう。また、四季は日本人の感性にも大きな影響を与えているような気がします。

コラム-Vol.27 酒酔い

「二度と酒は飲まぬ!」飲み過ぎた朝、思います。しかし、日が沈み、暗くなるにつれてその思いがどこか遠くへ消えてゆきます。そして酒の妖精が歌いだします「今日も~お仕事ゴクロウサマ~、まあ一杯~やってくれ~」と。私はいつも妖精の指示に従います。まず、ビール1杯、次に芋焼酎3杯、ここまでが毎日の最低量。気分が良いとさらに1杯2杯、そして種類を変えてもう1杯。酒は食べ物に合わせて何でも飲みます。私は決して酒が強い方ではなく、単に好きなので毎日飲みたいだけなのです。

酒を飲む楽しみは「ふわふわ~っ」とした無重力な気分でしょうか。さまざまな酒癖がありますが、気持ちが寛容になり陽気になる人が多い中、「すこしくどくなる」ことだけは「酒飲み」全員に共通していることかもしれません。

どんな「酒飲み」も大抵は許せますが、過去に1度だけ許せないことがありました。その場にいない人の悪口を呑みながら延々3時間も話していた人。話題がないのか、性格なのか、その人の飲み方と話の内容は私の限界をはるかに超えていました。当然、その後その人と杯を交わすことはなくなりました。

酒に限らず、音楽や会話、雰囲気、恋や夢など「よろこびに酔う」こともあります。少し昔のサッカーの試合ですが、ジョホールバルの歓喜のときは二日酔いどころか1週間も酔い続けていました。反対にドーハの悲劇のときはその悪夢に10日間も悪酔いをし、周りの人に迷惑をかけたのかも知れません。気持ちを切り替えるのが下手な私は「悪酔い」のほうが長続きしてしまうようです。

ところで、酔ったときの失敗談は皆様お持ちだと思いますが、当然私も例外ではなくたくさんの経験をしています。飲み会を終え、高田馬場から渋谷まで山手線に乗ったときのこと。たまたま空いていた席に座りました。次駅の代々木までははっきり覚えていたのですが、その後爆睡、気が付いたら渋谷でした。まだ渋谷?…しかし時計を見てみると、電車に乗ってから1時間以上過ぎていました。そうです、ひと回りしてしまったのです。東横線の最終電車には、当然間に合いませんでしたが、「山手線一周は1時間かかる」ということを学びました。

話を戻しますが、みなさんにとってお酒はどんな存在ですか?そして酔うとはどういうことですか?「芸術がなければこの世は闇」と言いますが、私は「酒がなければ…」と言いたいところです。一日の仕事のしこりを残さないように、時にはその日の余韻に浸るため、私は今日も酒を口にするでしょう。二日酔いにならない程に、そしていい夢が見られるように…

コラム-Vol.26 誕生日

毎年誰にでもやってくるお祝い。そうです、誕生日は平等にやってくるのです。そして毎年お祝いする人、しない人。ひっそりお祝いする人、大勢の人を集めて派手なパーティをする人。
私が知る限り、日本には「誕生日祝いの歌」がないことに最近気付きました。パーティの席では決って「Happy Birthday to you…」。そして誕生日祝いにケーキは何故? 理由はバレンタインデーのチョコレートと同じですか? 歳の数だけローソクを立て、一気に口で消すのは何故?

誕生日にはプレゼントの習慣もあります。生活必需品、身に付けるもの、置物飾り物系、ケーキやお酒などの飲食関係、手作りのもの、食事に招待、などさまざまです。すこし大袈裟ですが、プレゼントを見ると持ってきた人の価値観や性格がわかる気がします。気まじめな人、大雑把な人、シャレの分かる人、サービス精神が旺盛な人、細かい人、ケチな人、見栄っ張りな人、寛大な人など。もちろん、その人との付き合いの度合いや立場(友だち、先輩、後輩、恋人、仕事関係など)を考えてプレゼントを決めているのでしょう。
誕生日が1年に何回もある人がいるそうです。ということは、もし5回だとすると、1年に5つ歳をとり、一般の人が二十歳になったとき、すでに100歳。還暦や喜寿米寿を過ぎてから成人式を迎えるのです。反対に、うるう年の2月29日に生まれた人が成人式を迎えるのは5歳。なんと20倍もの差があるのです。5歳と100歳のひとが同時に成人式を祝う、なんとも滑稽な話です。私が知っている「年に誕生日が5回ある方」とは、二十歳を過ぎてから誕生日を5回に増やした女性です。その部屋は「有名ブランド品の誕生日プレゼント」でいっぱいだそうで、金欠病になったとき、それらのプレゼントが癒してくれるのだとか…。

私は誕生日の想い出があまりなく、派手な誕生日パーティの経験もありません。歳に関係なく、なんだか照れるのです。友人に「パーティやってあげる」と言われても、大人気なく断ってしまいます。ひっそりお祝いするのが性に合っているのかもしれません。プレゼントをいただいたことはありますが、誕生日を覚えてくれているだけで充分です。若い頃に一度だけ、年一回の自分へのご褒美をと思い、自分にプレゼントを買い、自分で自分にお祝いメッセージを送ったことがあります。なんだかナルシストのようですが、私には決してそういう感覚はありません。誕生日の贈り物に限らず、買い物は自分のものより誰かにあげるものを買うときの方が私にとっては楽しいのです。それも一緒に買うよりも、その人を想いながら買うものや色を考えると心がウキウキします。時には失敗することもありましたが…。

成人式の日、私は内装屋でジュータンを貼るアルバイトをしていました。現場に向かう途中、明治神宮あたりで振袖を着た美しい女性を横目に見ながら、クルマで通り過ぎたことを記憶しています。

これからも幾度となく誕生日がやってきます。大人らしく、恥ずかしがらず、堂々と迎えたいと思っています。

コラム-Vol.25 花火

東の方角にドーンと音がすれば、東へ走り出す。西の方角でドンドーンと鳴れば、足早に西へ向かい、そしてできるだけ近くで見物する。火の粉をかぶれば病気にならない、何かとご利益がある、そういう花火は縁起物とされていた時代がありました。

夏場だけで全国で3,000箇所、プライベート花火や学園祭の花火など、花火大会として正式に指定されていないものを含めると数限りないと思います。花火は…一瞬の儚さ、すぐに消えてしまう尊さ、潔さ…そして夢。花火を見ている人の屈託の無い笑顔を見ていると幸せな気持ちになります。次回花火を見に行かれた時、打ち揚げ中に是非一度、観客席を振り返って見てください。みんなとてもいい顔をしていて、「笑顔に理屈はいらないなぁ」、と実感します。

元来「祭り」には豊年万作とか疫病を追払うといった「願い」や「供養」など、人の心が込められていたりします。夏に祭りが多いのは、たまたまだったのです。「隅田川」が東京でいちばん有名な花火大会だと言われていますが、始まりのきっかけは夏の疫病を追払う願いがあったそうです。隅田川の花火に限らず、「祭り」や「花火」は当初の目的とは離れて最近では「楽しいイベント」になり、今や花火は夏の風物詩です。

花火は人が創り上げる美しさ、そしてその技術と芸術性を競い合います。花火をこよなく愛したある花火家が「化学反応としての花火と芸術としての花火が存在する」と語りました。一度にたくさん打ち揚げるエキサイティングな演出花火は世界中にたくさんありますが、ひとつひとつを見せる花火は日本が一番!技術は群を抜いています。特に外輪だけでなく、芯がいくつもある真ん丸の花火(八重芯、三重芯など)は日本のみで作られ日本でしか見ることができないものです。また、最近は日本でも数少ない昼花火(煙の色で演出する)も他国では拝めないもののひとつでしょう。

日本の花火大会を大きく分けると、スポンサー花火大会(横浜港神奈川新聞の花火、東京湾の花火 他)、芸術花火競技大会(大曲の花火、土浦の花火 他)、スポンサー及び花火競技会(袋井の花火、諏訪湖の花火、長岡の花火 他)、テーマパーク花火(八景島、ディズニーランド 他)、イベント花火(高校や大学の学園祭、お祭りの花火 他)、伝統的な花火大会(隅田川の花火、三河地方などの手筒花火、片貝の花火、恵比須講 他)、プライベート花火(結婚式、誕生日、会社や団体の花火)です。

最近は桟敷席など、花火大会にも有料席が増えましたが、場所を気にしなければどこの花火もタダで見られます。しかし、普通の花火大会はいざ知らず、有名な花火大会は、映画のようにプロデューサーや監督や演出家がいます。彼らはテーマを持って、観客席の場所、風向き、天候、タイミングを考えドラマチックに打ち揚げています。これからの花火は映画のように「あの監督だから見てみたい」「あの演出家だから見てみたい」と思われるような花火になっていくことでしょう。

コラム-Vol.24 エイプリルフール

(4月1日から一ヶ月、今回の話題はタイムリーでなかったような…恐縮です。)

西洋の習慣で公然とうそをつき、人をかついで良いとされる日。…4月1日の万愚節(All Fools’ Day)のいたずらでかつがれた人。イギリスではかついだ人がかつがれた人に向かってApril fool !という。

夢の話、想像の世界、非常識な話やありえない話、なんでもOK。このイベントに全く興味のない人も、いやそれどころか否定する人も多い事でしょう。日本ではタブーかもしれませんが、イギリスでは国王まで登場させ遊んでしまうという話しを耳にしたことがあります。AFに対する歴史と評価があり、それに国民性も日本とは違うのでしょう。日本であまり流行らない理由は、AFには「バレンタインデー」「ホワイトデー」や「クリスマス」のようにプレゼントの習慣が無く、また「ハロウィン」のようなグッズも無く、「土用の日」のうなぎや「端午の節句」の菖蒲のような対象物もなく、かといって正月や節分のような節目でもなく、縁起物でもなく、あくまで「こころの遊び」だけだからなのかもしれません。されど「楽しいイベント」だから今でもこの習慣が続いているのも事実です。

かつての日本のドッキリカメラやイタリアのイタズラ番組では、ネタを明かした後、仕掛けられた人が笑ってしまうケースと、怒ってしまうケースがありますが、ジョークをジョークとして楽しむ人、洒落を洒落と理解する人、さまざまです。許せるか許せないかは内容と程度の問題でしょう。しかし、騙さなければ目的は達成できません。「皮肉がキツ過ぎる」「ブラック過ぎる」「誰かを愚弄する話」はNG。最後に「くすっ」と笑えるものがいいですが…。

先月、エイプリルフールという春風がやってきて、少しの間私の傍に停滞し、そして僅かな思いを残し帰っていきました。今年の内容は…???まだ発表できませんが、2年程前は…「自分が企画する愉快な旅」の作文に応募したら最優秀賞になりスカンジナビア半島一周旅行が当ったけれど、どうしても仕事で行けないので誰か欲しい人に無償で譲る話。20人くらいにメールを送って、「是非行きたいのでお願いします」「仕事を調整しますので譲って下さい」と、ホントに信じている人が数人いました。後日フォローのメールは送りましたが…。送られた方は4月1日にメールを見るとは限らないため余計信じてしまうようです。他に、騙されたふりをする人、あきれている人、さまざまです。

私は毎年このイベントを楽しんでいます。内容によっては友人知人が減ってしまうリスクがありますが、「おもしろいヤツだなぁ」と、より親密になれるケースもあります。可能性はどちらにも働きます。確かに、何もしなければ私の評判は、悪くも良くもなりません。しかし、私の周りにひとりでも…笑ってくれる人や楽しんでくれる人、息抜きになった人がいる限り、私はこれからも続けて行くつもりです。