コラム

コラム-Vol43 一杯のカレーうどん

 少し早めに昼食をとろうと豊島区内の老舗そば屋に入ると中では初老の男性がひとりビールを飲んでいる。すでに瓶が空になりもう1本頼もうかどうか迷っているように見えた。やがて「おやじ、もう1本」と小声で言ったがやや耳が遠いと思われるご主人には声が届かない。私が「ご主人、もう1本ビールだってさ」と伝えようかと思ったが、おせっかいはやめた。私は野菜そばを注文した。そば屋のカツ丼や親子丼もうまいが、そば屋のラーメンなど中華も意外に口に合う(うまい)。注文してから野菜そばが出来るまでの間、その人がとなりのテーブルだったこともあり気になってしかたがない。しばらく様子をみていると、先程よりすこし大きな声で「おやじ、カレーうどん」とビールをあきらめたようだ。こんどはご主人にも聞こえ、間もなくカレーうどんが運ばれてきた。豪快で美味そうだ、次にこの店に来た時はカレーうどんにしようと考えた。「すごい大盛りだなぁ、カレーがこぼれそうだよ」男性はつぶやきながらカレーうどんを食べ始めた。私の目にはすごくうまそうに見えるそのカレーうどんだが、男性はけっしてうまそうには食べていない。いやそれどころか二口食べてやめてしまった。そして「おやじ、帰るよ、勘定してくれ」。私は残されたカレーうどんが気になった。もちろん「もったいない」とも思った。

女将さんが器をさげに来た時、「あの人、ほとんど食べないのに、なんでカレーうどんを注文したんだろうね。」私は余計なことを聞いてみた。「あの人いつもそうなのよ、すこし変わっているのよ」と女将さん。「あんなに残されるといくらお金もらったとしても作り甲斐がないよねぇ」と言うと「そうねぇ…」と女将さんはため息をもらした。ふと私は「一杯のかけそば」の話を思い出していた。

店を後にして駐車場まで歩いていた時、あの男が残したカレーうどんがまだ気になっていた。確かに私でも、食べたいものを注文したにもかかわらず途中でお腹一杯になって残してしまうこともある。しかし普通半分くらいは食べる筈。しかしあの男性はわずか二箸だけ、二口しか食べていない。何故?と思った時、男性の意図がわかるような気がした。昼時にビール1本で長居するわけにもいかず、お店にも貢献しないと申し訳ない。そう考えあまり食べたくなかったカレーうどんを注文したのだろうと推理できた。それならチップを置いていけば?という考え方もあるが、それがあの男性の気持ち。恥ずかしいのか、そういうシャラクサイことはできないのだろう。

そういえばその男性が11時30分頃に入ったとして12時5分前には帰っていった。12時から会社員や近所の人が来て混雑することを気遣っているのだろう。結果や見えるものだけで判断してはいけない、人の思いはもっと深いとことにあるのでは……。

私が店を出たのは12時10分。店はすでに客で満席になっていた。

コラム-Vol42 古き良き地名、クジラの話

茨城の田園地帯に「鯨」という地名があり、東鯨と西鯨に分かれている。海の近くと想像されるかもしれないが、実は関東平野の中央に位置する。その「鯨」を挟むように小貝川と鬼怒川という2本の川が流れている。その昔、太平洋から利根川、利根川から小貝川と鮭のように川をさかのぼって鯨がここまでやって来たのか、と子供心に思ったことを記憶している。大人になって考えればありえない話だが内陸で貝殻や魚の化石が見つかったりすることもある。ということは今では想像できないところでも本当に鯨がいたと考えることは単なる空想でもない。鯨の隣には「砂子」、その隣は「亀崎」と、海に由来する地名も数多く点在するのである。

地名には必ず意味がある。そこで鯨と付いた理由を少し想像を膨らませて考えてみると、①遠くから見ると立体的な森が鯨のように見えた ②上から見た地形が鯨に似ていた ③鯨の名を持つ領主が存在した ④古くから平地だったことから久平(くひら)という言葉が訛って鯨になった ⑤地域の有力者の顔が鯨に似ていた ⑥地域を治めている殿様の大好物が鯨だった、などなど。文献や歴史書で調べることなく、思いつきだけで書いているので悪しからず。

ところで、北海道の釧路から登別に向かう海岸線沿いに鯨半島というところがある。遠くから見ると確かに鯨が丘に打ち上げられたような形をしている。その昔、アイヌの人たちが鯨だと思い込み一生懸命捕獲に向かったそうだと、地元の友人に言われて実際に見てみたが、確かに納得。どこまで近づいたときに、「鯨ではない!」と気づいたのか、そしてその後彼らのとった行動は…とても気になる。

東京港区では、笄町、材木町、霞町、本村町、芝白金三光町など昔の地名が消えてゆき、西麻布、南麻布、元麻布、東麻布に変わり、また1丁目、2丁目などと細分化された。東西南北、そして1・2・3・4と分かりやすくしたと思われるが、返って分かりづらくなった気がする。北麻布がなくて元麻布があるのは何故?

目黒区には、今でも平町、柿の木坂、八雲、鷹番、碑文谷など、昔の情緒のある地名が残っているところもたくさんみられるが、中には「南」という殺風景な地名に変わった地域もあり、ずっとそこに住んでいる方々がとても残念なことだと話していた。外苑西通りと六本木通りの交差点が「西麻布」に変わってからかなりの時間が経過したけれど、今でもタクシードライバーには「霞町の交差点」のほうが通じたりする。同じように建築不動産業界も、広さや単価を現すとき公的には㎡を使うが、坪を使ったほうがピンとくると言う人も多い。

文化が変わることはごく自然なこと。しかし、地名は人に例えると名前。簡単に変えるのはいかがなものだろう。合理的というだけで地名が変わることにはいささか不自然さを覚えるのは私だけなのだろうか。

コラム-Vol41 喫茶店

モーニングセットをオーダーするとなんだか得した気分になれる。レモンスカッシュとクリームソーダが人気メニュー。ランチのメニューはナポリタンとカレーライス。席に着くとオシボリと水を運んでくれる。喧騒の世界を離れ、ひと時のリラックスタイム、そんな古き良き喫茶店。

今はオープンカフェに代表されるように、外の世界と一体化させようとしている。また、可能な限り外の景色が見えたほうが人気店になる。そしてほとんどがセルフサービス。コーヒー一杯の料金は200円から精々400円。そこには名物マスターや気前のいいママは存在せず、マニュアルの対応だけが目立つ。

20年前、コーヒー一杯の相場は500円から700円でおもてなしあり。セルフサービスはバブルが弾けてから流行りだした。今思えばこのころから「何事も安いほうがいい」というデフレ現象が始まった気がする。サービスという目に見えず形が無いものに対する価値が認められなくなったのだ。人々の心は余裕が無くなり、世知辛いことも多くなってきた。

「運んでもらうだけで300円余計に払うならセルフでいいよ」。経済的には一理ある話。しかし、「300円で運んでくれて、片付けてくれるなら安いよ」という考え方もあるだろう。要は価値観次第ということだが、問題なのは目に見えないものを認めない事実と300円余計に払える人が払わなくなったという現実。

飲食店も会社も人件費がウェイトを占めるため、そこを削って価格を下げる。そしてこの社会には仕事が氷のようにだんだん溶けて無くなっていく。そんな今、レトロな喫茶店にいるとなんだかとても落ち着く。もてなしている人の心ともてなされている人の一体感のある空気が流れ、外の景色は全く見えないが、日常をすこしだけ離れた空間が心地良い。

知人におもしろい人がいて、一緒に喫茶店に入っても決して自ら進んで注文はしない。私が注文するまでじっと待つ。そして私が注文するやいなや必ず「同じものを」という。ウェイトレスが先にその人に注文を聞いてしまう時もあるが、その時も決まって「この人と同じもの」と私を指差す。店員はあきれた顔で私に注文を確認する。

彼曰く「喫茶店とはくつろぐ所であって、何を飲むかは全く関係ない」。余程嫌いなものでない限り注文はいつも決まって「同じもの」。また、「提供する側のことを考えても同じものを注文したほうが効率いいだろう」ともいっていた。私以外の人と喫茶店に入っても同じらしい。こんな人だらけなら喫茶店にメニューはいらない。奇特な人だ。先日カフェに誘った時、私が「注文は?」とその奇特な人に聞いてみると、「あなたと同じもの」だった。セルフサービスのカフェでは変えてもいいのでは…?

カフェはひとりひとりが中心の多面体。喫茶店は客みんなとスタッフがひとつの空間を共有しているように思う。そんな世界で私はお店の人がやさしく運んでくれるコーヒーをゆっくり味わいたい。そこにいい音楽が流れていれば尚更心地よい…。

コラム-Vol40 同窓会

同窓会、なぜか30才を過ぎるころまでは全く出席する気にはならなかった。会いたくない人がいたわけではないし、当時気の合った仲間もいた。今、会いたいと思える人がいなかったことは確かだが、思えばなんとなくただ面倒だったのだろう。卒業して2~3年くらいならともかく、10年20年も経つと、それぞれの、住まいや仕事、家族など環境や考え方が随分変わっている。相手に頷いたり、自分の環境を話したり、また「変わらないね」「太ったね」「オジサンになったね」「結婚は?」「子供は?」、こういう会話がわずらわしいと思っていた。当時の話だけをすれば楽しいが、やはりそうはいかないだろう。相手を羨んだり、嫉妬したりもしたくない、また自分の発言が誤解を招くこともある。

そんな私も30半ばに一度だけ「出席」と返事を出したことがある。欠席ばかりしていると、その内声もかからなくなってしまうのではと不安に思えたから。しかし大人気なく前日にキャンセル、自分自身が一番嫌っている「ドタキャン」をしでかしてしまった。さして行けなくなった理由などなかったが、昔話に花を咲かせることなど興味がなく、やはり同窓会が面倒くさく思えてしまった。昔の友達に会うことさえも。当時の自分に満足していたことも理由のひとつだったのだろうか。反対に、未熟な自分をさらけ出すことが怖かったのかもしれない。誰でも誕生日を迎えるとひとつ歳をとる。これだけは同級生に先行されることも後輩に追い越されることもない事実。

40歳を超えると考え方も少し変わり、同窓会に胸膨らませて出席するようになった。お腹が出ている人、やや生活に疲れ気味の人、独身で恋愛にまだまだ現役の人、美しくなっている人、おしゃべりになっている人、ムキムキマンに変貌した人、仕事の夢を語っている人、髪の毛がゴマシオの人、刺激的なことばかりだ。50人程の出席者で、実年齢より下に見えたり上に見えたりして、見た目の歳の差はなんと二十歳以上。その親子にも見えるような二人が当時のように同級生口調で会話しているのを見て、滑稽でもあり、何かとても不思議な感じがした。何人かの生徒は同席していた恩師よりはるかに年上に見え、一見すると誰が恩師か生徒かわからない。卒業して20年以上も経つと見かけが全くの別人になっている人がいる。半数の名前と顔が一致しなかった。

同級生には上下関係はなくても、社会に出れば入社が一日早いだけで先輩。やがて一人の大人として見られ、相手が何歳であろうと対等な立場で、甘えは許されない。それから15年経った同窓会、私はいったいどの様に映っていたのだろうか。
次に同窓会があれば是非また参加しようと思っている。自分を見つめるために…。

コラム-Vol39 船

「海は広いな~大きいな~」子供のころ、海を見ると夢は大きく膨らんだ。そして情報化社会の中で、よその国がずいぶんと近くなった。

中学のとき池で乗った二人乗り手漕ぎボート。これが初めての船、いや舟の経験。漕ぎ出してしばらくはオールの使い方が分からず相方に随分水をかけてしまったが、短時間でみるみる腕が上がったことを今でもはっきり覚えている。

大学生の時、伊豆七島へ行った東海汽船。2等船室で雑魚寝だったがとても楽しかった。社会人になり東京の晴海から北海道の苫小牧まで乗ったカーフェリー、愛車と一緒に北海道の旅。そして一番の思い出はグァム島から東京まで帰ってきた時の大型フェリー「日本丸」で、船酔いなど全くなかった私が、この船に乗ったときは、半日以上食事が喉を通らなかった。フィッシングボートで一日中トローリングをしていても、鎌倉小坪海岸から漁師の船に乗って鯵のビシ釣りに行ったときにも無かった船酔いに見舞われた。

グァム島から東京までは3日と半日。船の旅で視界に入るものは延々海と空、夜は星と月だけが続く。遠くに島が見えてくると訳もなく胸が踊り、去り行く島から視線を外すことができなかった。夜は宇宙を漂っているように星が近い。宇宙飛行士はこれに近い感覚なのだろうか。レストランのテーブルクロスは食器が滑り落ちないように水を湿らせてあり、食事をしていると、右の窓から海面だけが見える。船室のベッドは昼も夜も揺りかごのようだ。最初は揺れと体が喧嘩をしていたが時間を追うごとに慣れてきて、揺れを吸収する体になっていった。晴海の地に着いてしばらくは立っているのが困難だった。

船中で時間を持て余していると様々なことを考える。150年前に龍馬が見た黒船は現在に例えると、とてつもなく大きなUFOが飛んできたような驚きだっただろうか。今や世界には30万トン超の大型客船が造られ、アイススケートリンクやロッククライミングを備えた乗客7,000人乗りの豪華客船が航行している。そのスタッフは5,000人、地球上にあるものはほぼ揃っているらしい。医者や看護師も乗り合わせている、まさにひとつの街、いや島が海に浮いているようなもの。一度出航すると何ヶ月も旅をするこの船、おそらくルールやマナーもたくさんあるに違いないが、人間性の異なる人たちが乗り合わせていると、違反する人も出てくるだろう。ゴミはどう処理するのだろうか。トラブルの解決はどうするのか。警察や裁判所も必要かもしれない。

俯瞰で捉えると、地上から海洋の豪華客船を見るように、宇宙に長時間滞在した野口聡一さんの場合も高い空から地球を見て、銀河系を泳ぐ一隻の客船のように映ったのではないだろうか…。

コラム-Vol38 昭和の中華料理店

以前からとても気になっているお店があった。決して普通ではないレトロな店構え。先日ようやくそこで食事ができた。

その方面に出かける時は常に意識をしていたが、この店で昼食にしようと思った時に限り休みだったり、他で食事した後に通ると暖簾が出ていたり、昨年はそれが続けて3回もあって「縁がないんだ」と大人気なく怒っている自分がいた。矛盾しているようだが、そのあまりにも商売っ気の無い殺風景な店構えのため、「本日休業」の看板を見てホッとした時もまたあった。その店は極端においしいかまずいか、どちらかだろうと考えていた。中華料理店なのに暖簾とシャッターと入り口の看板はブルー一色で、さらに看板には店名がない。暖簾には書いてあるようだが風でめくり上がって読めない。サッシは曇りガラスのため店内の様子は全く伺えない。店構えだけで味を予想することには比較的自信があったのだけれど、もしまずければ今後の飲食店選びに自信喪失してしまう不安もあった。

店に着いたのは土曜日の12時丁度。店の前にはクルマが2台止まっていて、10人ほど座れる店内には3人の客がいた。予想した通りおばあちゃんが接客担当でおじいちゃんがシェフだった。店内に入ると入口正面には招き猫、左側の壁には熊手。右の壁には商売繁盛の額。まさに昔ながらのデコレーション。テーブルの上には醤油、ソース、酢、胡椒に七味、爪楊枝、割り箸、そして当然のようにアルミ製の灰皿も置いてあり、昭和という時間で止まっていた。私が子供のころに行ったような、当時のままの店内。磨り減って色が変わり果てたテーブル、破れた椅子はビニールテープで繕ってある。しかしその様子は古くてみすぼらしい感じはなく物を大事にしているように思えた。料理メニューは最低でも15年は書き換えていないと思われ、年季が入っている。そのことは壁に貼ってある料金表でも確認できた。

注文したラーメンは赤青黄色の渦巻き模様のラーメン丼で出されて最初の感激。さらに期待を膨らませスープを口に運ぶ。やはり味は昔ながらのしょうゆ味で2回目の感激。麺は細麺、具はのりとチャーシューが一枚ずつ、ほうれん草に鳴門、完璧な脇役が揃い踏みで3回目の感激。懲りすぎたものが多すぎるため飽き飽きしていた現代のラーメンに無いシンプルさに感動した。難を言えば好物のシナチクが入っていなかったことが唯一残念だった。

この店の定休日は日曜日だけとのこと。私はたまたま3回も続けて土曜日に行ってしまっていたのだ。そして、料金表に○○円ではなく○○縁と書かれた洒落に思わず微笑んでしまった。「ありがとう」と言うおばあちゃんの笑顔。満足して店を出る時、すでに私は次回のメニューを決めていた。

コラム-Vol37 YONAGUNI、東崎と西崎

那覇からの直行便は火、水、金、日曜の一日一便、50人乗りプロペラ機。石垣島経由なら毎日便があることを知らなかった私は、火曜14:15分発の直行便に乗った。見事なまでの快晴の中、宮古島、石垣島、西表島を見下ろしながら1時間20分後に、南国の小さな与那国空港に着いた。そして西へクルマで10分程の久部良地区へ。

島を訪れた目的は海底遺跡。自然説と人工説、専門家の意見が二分されているものを自分の目で確かめたかった。人工説によると、造られた時期は推定1万年前で3,000年前に造られたエジプトのピラミッドよりはるかに古いこととなる。また、遺跡は海の中に造られたのではなく、陸上にあったものが海面の上昇によって沈下したという。「ムー大陸」の存在を肯定。二枚岩、テラス、柱の穴、神殿、カメのレリーフ、巨人の階段と呼ばれているものがあるが、私が最も人工的だと感じたのは「水路」。一枚の岩が数メートルの長さにわたり幅20センチ深さ20センチに狂い無く削られているのだ。海流にせよ、風化にせよ、これは自然の産物ではない。遺跡に詳しいインストラクターに説明を受けながら船を下りた。

ダイビングは午前中で終わらせ午後からはスクーターで島を巡ることにした。私は何処の島を訪れても必ず島を一周する。その島を征服した気分になるからだ。スタートする時、レンタルショップの人の「ドクターコトーの診療所をゆっくり見るなら左回りがいいですよ」とのアドバイスで「西崎(いりざき)岬」へ。

島全体が牛や馬の牧場でもあるため、道の半分は牧場の中を走る。西崎から5分も走ると、やはり牧場の洗礼。数十頭の馬が道を塞いでいた。いや、塞いでいるのではなくただ散歩しているのだ。よそ者の私は、遠慮しながらゆっくりとゆっくりと近づいた。馬たちが私に驚く様子は全く無く、多くの馬に私の方が怯えている。2メートルくらいまで近づくと、約束をしていたかのように馬たちはゆっくりと左右に分かれてくれた。左に緑の牧場、右に青い海を眺めながら、いつ飛び出してくるか分からない動物を想像しながら、またしばらくスクーターを走らせた。

ドクターコトーの診療所を目指していると細い道に迷い込んでしまった。通りがかりの女性に道を尋ねると、やはり沖縄、やさしく丁寧に教えてくれた。同様に診療所の管理人も歓迎してくれた。内部は隅々まで神経が行き届いた完璧なセットと小物、カルテは内容まできちんと記入されている。かなり接近して見てみたが、外観も小物もまさにその時代そのもの。映像に映らないところにも拘り、妥協を許さないドラマ制作のプロフェッショナル精神に驚かされた。そして、自然とは対照的な人工の診療所セットが自然に囲まれたこの島に完全に溶け込んでいた。

診療所を後にして槍のように海面に突き出た立神岩、牛が主人公の東崎(あがりざき)、誰もいない素朴なナンタ浜、島で一番賑やかな祖納の街を通り抜け、空港を右手に久部良の宿を目指したころは、日本最西端の夕日が沈みかけていた。

コラム-Vol36 東京タワー

2月2日は夫婦の日、3月3日は耳の日、4月6日はお城の日、みんな語呂合わせの記念日。東京タワーは昭和33年に完成したから333メートルと信じて疑わない人がいる。しかしこれは偶然の一致。関東一円に電波を送るのに必要な高さがたまたま333メートルだったということ、どうせ造るなら320メートルのエッフェル塔より高くして世界一にしよう、とのこだわりの結果だったのだ。私は、小学生と高校生の時、2度登ったことがある。

現在建築中の東京スカイツリーは武蔵の国に造るから高さ634メートル。3月29日時点で東京タワーを追い抜き、338メートル。当然その後も毎日少しずつ高くなっているが、外からは働いている人や工事内容が全く見えないから不思議な感じがする。まるで竹の子が自然に伸びている様子。当初の計画の高さは610.58メートルだったが、途中で634メートルに変更したそうだ。完成すれば自立式電波塔としては世界一となり、地上450メートルの展望台から76キロ四方を見渡せる。この634の高さは偶然ではなく意図してムサシにしたようだ。武蔵はその昔、近県を含めた東京の地名。スカイツリーの名前の公募があったとき、応募はしなかったが一応私も考えてみた。「平成塔」「ドリーミングタワー」「大江戸スカイハイ」「東京ムサシ」など。「東京スカイツリー」に決定した時、最先端技術の結晶のデジタルテレビ塔でありながら、エコでやさしい、また夢のあるいい名だと納得してしまった。

スカイツリーは間近で見るより、遠くから眺めたほうが大きく見える。東京タワーの付近には高層ビルが立ち並んでしまったのであまり感じないが、スカイツリーは常磐道や東北道から東京に入るとき、その大きさに改めて驚く。

周囲の人が期待して見ている。毎日ツリーを写真に収めている人や30分以上も余計に時間がかかるのに、ツリーが見られるルートで通勤しているサラリーマンもいるという。ツリーを自分にだぶらせながら見ているのかもしれない。東京の人たち、日本の人たちの夢を背負っているスカイツリーは、やがて日本のシンボルとなるであろう。

高度経済成長期に建築中だった東京タワー。当時を背景にした映画「三丁目の夕日」に出てくる街並みは、決して裕福とはいえないが活気がある人や商店街を映し出している。寧ろ裕福ではないがゆえにみんな夢を持っていた。

遅くても2012年早春、東京スカイツリーが完成する。しかしその前にもう一度、東京タワーに登ってみたい。

コラム-Vol.35 種子島の底力

鹿児島港からジェットフォイルで1時間40分。桜島やピラミッドのように尖る開聞岳を過ぎ、船は種子島に到着した。港は思いのほかひっそりとしている。昼過ぎに着いたため、まずは食事を済ませ鉄砲伝来と種子島歴史資料館へ向かう。館内に入ると我々3人と受付の女性以外、他に誰もいなかった。昔の種子島の人々の生活、鉄砲を伝えたポルトガル人と地元の鍛冶屋の娘との恋愛物語、日本の鉄砲作りの歴史、種子島という名前の謂れ、興味深い話が沢山あった。

今回の目的は明日のロケット打ち上げ。種子島宇宙センター内の無料バスツアーへ乗るため、逸る気持ちを抑えながら南種子を目指しクルマを飛ばした。ツアー参加者は我々の他に10名程、中には家族連れもいた。走行中、女性ガイドがロケットと宇宙センターが種子島に出来た訳などを丁寧に説明してくれた。2,600メートル離れた丘の上から打ち上げ地点が見える。そこが宇宙への玄関だと考えると、偉大に思えたが、また恐怖感もあった。数個に解体されたロケットの倉庫を見学して打ち上げ地点の近くへ。ここまで来ると不思議に宇宙がとても近くに感じられた。

センターからの帰り道、翌日の打ち上げ成功を祈るため宝満神社へ立ち寄る。宿までの途中に地元の温泉銭湯で汗を流し、素泊まりの宿に着くや否や、早速着替えてタクシーで一番近い街へ食事に出かけた。皆急いだ訳は、暖まった体のままギンギンに冷えたビールを飲みかったから。今や明日のロケット打ち上げを口にするものなく、おいしい魚を前に会話も少なくなった。

3人ともほろ酔い気分で店を出、しばらく街を歩く。サーファーのデンマーク人が経営するバーがあり、H2AとH2Bという珍しい名前のカクテルを目にした。最初にAを、続いてBに挑戦すると急に酔いが回ってきた。Bはなんとあぶさんだったのだ。ご存知、これらふたつは種子島宇宙センターで打ち上げられるロケットの名前。ひとり3杯ずつ飲み、長い時間をかけて、星を見ながら緩やかな下り坂を宿まで歩いて帰った。

今日は打ち上げの当日。起きるや否やカーテンを開けてみると、薄陽が差していた。晴れてよかった~。早速一番近くで見られる山へ直行すると、既にたくさんの車が止まっている。さらに20分ほど歩き小高い丘の上に我々は陣取った。「ここはサイコーのポイントだね、きっと」そう言い聞かせ、10時21分の打ち上げをただただ待った。初体験はなんでも興奮するが、出来るだけ近くに寄り、見えるもの以上に音を体感したかった。右手にデジカメ、左手に携帯、でも一番焼き付けたかったのはこの目とこの耳。

自分が主役であろう筈もないのに、時とともに緊張感が増してくる。そしてFire!!…煙とともにオレンジ色の発射炎、2~3秒の差でドドド~ン!という地響き、そのまたすぐ後に経験したことのないバリバリバリ~ッ!という雷の化け物のような振動音。鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つ。そして悩みも吹っ飛ぶ。

秒速7.8キロ、種子島のロケットはまたひとつ私の忘れられない思い出を作ってくれた。

コラム-Vol.34 利賀村の夏

毎年8月「野外ステージで行われる芝居の中で、台詞や音楽に合わせて花火を打揚げる」富山県利賀芸術祭。この種のエンターテインメントは、日本中でおそらくここでしか見られないであろう。円形観客席の前に舞台、舞台の後ろに池、池の中に離れ小島、その後ろに雑木林と山々…。ファンタジーの舞台は完璧に揃っている。池では噴水花火、滝花火、ロケット花火に水上花火、雑木林の中で爆竹と煙幕、乱玉に火柱を揚げるトラの尾、その後ろから大きな打揚げ花火。池の中心にあるのは石を積み上げた灯篭のようなオブジェ。そして暗闇の中の風と雨、遠くで鳴り響く雷の音、自然の現象が舞台を盛り上げる。

車で砺波インターから45分、八尾の町から35分、五箇山インターから45分、富山県の秘境「利賀村」。どこから向かっても、くねくねと曲がりくねった崖道が続き、まるで孫悟空が出てきそうな山々が連なる。

村の中心地を過ぎ長いトンネルを抜けると大自然の中に芸術村がある。小川が流れ、山々に囲まれ、まるで桃源郷のようだ。劇団本部や芝居小屋も含め、建物は野外劇場以外すべて合掌造り。そのため花火の時は、消防車で茅葺の屋根に水をこれでもかとかけまくる。しかしそれでも、大きく開いて地面に向かって垂れ下がってくる金色花火の錦冠菊を打ち揚げる時は気を使う。以前、茅葺屋根に火の粉が降ってきたことがあったからだ。

村でお世話になるのは民宿「七」(シチ)。ここのご主人がまたいい味を醸し出している。年に一度の宿泊なのに、いつも丁寧にかつ気さくに対応してくれる。こんな山奥なのに夕食には必ず海魚が一品加わる。魚好きの私にはなんともありがたいもてなしだ。味噌汁は、この地方の特徴だと思われるがやや甘め(薄い)、しかし何時でも必ず温めて出してくれる。我々が夜中まで飲んでいてもいやそうな顔など一切見せずにいつも笑顔。そして朝早く起きて朝食の支度。

毎年、ここの芸術祭で会うひとりの花火師がいる。滝花火(一般的にはナイヤガラとして知られている花火)と噴水花火の設営と演出にかけてはおそらくこの男の右に出るものはいないであろう。頭に熊の引っかき傷のあるこの男はとなり町の八尾に住み、1キロ先の熊を仕留める名人。還暦を過ぎているとは思えない肉体、鹿やイノシシ狩、鮎や岩魚釣り、そば作り名人でもあるが、本業は意外にもグラフィックデザイナーだという。酒好きで話し好きのこの男に毎年深夜遅くまで話を聞かされる。祭の後だけに眠い…。しかし私の日常生活とは程遠く興味深い話なのでついつい聞いてしまう。そして私よりずっと遅くまで飲んでいても、私が朝起きた時には、すでに出かけている、まるで動物のような行動をする男だ。

芸術祭は一年に一回のため、この男とは今までに十回程度しか会っていないが、なぜかもっと昔から知っているような親しみを覚える。お互いこの祭に同じ価値を見出し、演出の感動を共有しているからだろうか。今年の夏も利賀村は暑く熱く、上空の星は眩しいほどに輝いていた。