コラム

コラム-Vol.13 都会好きな原始人

サツマイモを生でかじったことある?「栗」はどう?

「生のサツマイモ」と「生の栗」、私が幼い時苑でるのが面倒で口にしたことがある。双方共同じ味、同じ歯応えだった。中には渋いものもあるが、大半はカリカリしていて甘かった。

ところで、田舎と都会、みんなはどっちが好き?
「田舎」「都会」、意見は分かれるところ、「歳を取ったら田舎に住もう」という話をよく耳にする。「田舎でのんびり」ということだろうが、ここでいう「田舎」とは「生まれ故郷」「田畑が多く人家が少ない所」の二通りある。生まれ育った故郷で過ごしたい人の方が多いのであろうけど、柵などが無い田舎は新鮮で心地よい気がする。

都会の雑踏やめまぐるしい変化が鬱陶しく感じてくるのだろうか。都会でがんばりすぎたしわ寄せか。私も田舎は大好き。でも「歳を取ったら田舎に住もう」よりはむしろ反対で、若ければ田舎に住んでも自分で刺激を求められるし、何でも仕事や遊びに変えられるエネルギーがあるが、年齢を重ねるうちに少し億劫になってくる。価値観とか人生観の違いもあるだろうが、自分から刺激を求めるのではなく「刺激」が自然にやってくる都会は大人向きのエリアだと思う。無論野菜作りが大好きで田舎に移り住むという人は別だが。

基本的に「都会」と「田舎」は比べるものではないと思う。私は普段「ラーメン好き」をアピールしているので、いろんな人に「何ラーメンが一番好き?」とよく聞かれる。そのとき「塩も醤油もとんこつも味噌も、みんな好きだ」と答えると、すかさず「その中で一番好きなものだよ」と言われるので「その日の気分で一番好きなもの、食べたいものが違う」と言う。だいだいはここで納得していただくけれど、ときどき「一つだけ選べ」と怒ったように言われるので、その場合は「そうだなあ、そういうことになるとやっぱり醤油味かな、いわゆる中華そばや支那そば」と不本意なことを言ってしまう。すこし話が脱線した、恐縮です。比べることがナンセンスな場合があるということを言いたかった。

多種多様な人が住んでいる都会、街も仕事も遊びもすべてが刺激的。隣に住んでいる人の顔も知らないのは寂しいと言う人がいるが、それがかえって煩わしくなくて心地よかったりもする。街を歩いていても、いちいち挨拶をしなくて済む。また、冷たい都会の中だからこそ人のやさしさや温もりをより感じることもある。田舎の人はみんな素朴で温かいといわれるが私も同感。都会で働き遊び、時々自然が溢れる田舎でのんびり過ごす。この場合の田舎は「故郷」でも「知らないところ」でもよい。「水」と「空気」と「緑」それだけで爽快。そして「温泉」と「うまいもの」と「洒」があればなお良し。「うまいもの」とは豪華なものや高価なものではなく、お袋の昧や田舎料理などの素朴な味。「洒」もごく普通の酒でよい。

田舎で生まれ育った私が今、素敵な夜景を見ながら田舎料理で焼酎を飲む、そういう都会の生活が長くなった。自称「都会好きな原始人」。

コラム-Vol.12 レンタルビデオ

映画を見ながらよく喋る。どうやら女性のほうが余裕があるらしい。私の場合、映画鑑賞中は何も喋りたくない。酒は大好きだけど鑑賞中は飲まない。出来ることなら携帯電話も切って、部屋の電話線も切って、部屋を真っ暗にして映画に集中したい。

随分と前の話だが1ヶ月に50本以上映画を観ていた時期があり、そのうち映画館に出向いたのは1~2本程度。最近はDVDが人気であるが、当時はレンタルビデオで広尾のビデオショップでは1本1泊2日で1,000円と、今から考えれば随分高価だった。映画はジャンルを気にせす何でも観るほうだが、強いて言えば「冒険もの」「サスペンスもの」「戦争もの」「刑事もの」。そして関心がないのが「恋愛もの」と「オカルトやホラー」など。女性は怖がりなのに、この手のものをよく観るらしい。摩訶不思議だ。いわゆる怖いもの見たさなのだろうか。怖い映画を女性と一緒に見ていると思う、(お化け屋敷でもそう思うが)「女性は男より強い」と。なぜなら恐怖の瞬間、大声を出せるから。男は恐怖の瞬間、声が詰まり、「ふっ!」と無声音。反対に女性は「キャー」とか「わ-」とか「ぎえ-」「ひえ-」「ぎょえ-」。回りを気にせず本能的に大声を出せるのは、ある意味でハートが強い証拠。お化け屋敷で本当にびびっているのは、「オレの後ろを付いて来い!」と豪語している男のほうだ。

話を戻そう。ビデオの映画をいっぱい観ていたときのこと、始まって15分程で、なんだか不思議な気分になった映画があった。よくいうデジャブーに似た感じだった。こんなこと経験したのかな?前に夢で見たのかな?さらにしばらく観ていたら現実がやってきた「この映画、先週観た」。思わずガックリ。たくさん観すぎていたのでタイトルを全部覚えているはずもなく、ビデオケースを見てもわからなかった。現実に戻った瞬間、当然二度見はしたくないのでビデオを停止する。ひどいときは3本借りてきたうち、2本がそうだったことがあった。そんなことを何回か繰り返されたので、大雑把な私がマメになり、借りてきた映画、観た映画をノートに書くことにした。ついでに5段階の評価も付けた。◎⇒○⇒△⇒×⇒××。◎は友達に是非観てもらいたい映画。××はその反対で、残りの3つは「観る人の好みの問題」。せっかく作ったそのノートは、前回の引越のときどこかに紛れてしまった。

私は、最初つまらなそうな映画でも「そのうちおもしろくなるだろう」と期待して最後まで期待だけで終わってしまうタイプ。最近もあったことだが、夜中眠い目をこすりながら最後まで観て、結局つまらない映画だったときはショックが大きい。タイトルに騙された、予告に騙された、顔ぶれに期待しすぎた。あの監督なのに何故?なんだか悔しいし、消化不良。睡魔はとっくに立ち去っているので眠るに眠れない。「気分直し」でもう一本観たくなる。だけど「つまらない映画もたまにはあるだろう」、第一「選んだのは自分」だし、「とてつもなくまずい飯を食ったよりはマシだ」、と自分に言い聞かせ結局1杯ひっかけて寝ることにしている。最近はレンタルビデオが安くなり助かった。

コラム-Vol.11 ネコ、そしてペット

「ニャロメ」
これは私が「すこしだけ怒ったとき」の口ぐせ。ニコニコしながら言うので、実際に怒っているわけではない。昭和30年代生まれの人ならご存知のアニメ「も-れつア太郎」に登場する猫の名前だ。このネコ、カッとなると「ニャロメ~」と叫ぶ。読者のみなさんの中にも「コンニャロメ~」とか「アンニャロメ~」とか耳にしている方も多いのでは…。

最近のペットブーム。ペットと暮らせるマンションも増えてきた。動物好きな人が増えて、人間とは同居できない人が増えたのかは定かではないが。私も動物好き、されどペットに洋服を着せたりクツを履かせたりするのは如何なものだろうか。気持ちは分からないでもないが、場合によっては「エゴ」になってしまう気がする。

最近のペットはかなり文化的な生活を送っているが、昔はけっこう放っておかれたものだった。私の実家のネコ(名前はミー)も帰らない日も多く「放浪の旅」に出たりもした。ペットフードではなく、家族の食べ残しが主食だった。他には、犬(名前は忘れた)、猿(太郎と花子とオイちゃん)、鳩、金魚、山羊もいた。ネコが一番長く、15年程飼っていた。

ネコ派、犬派、あなたはどっちが好き?従順な犬?勝手気ままなネコ?どちらを選ぶかでその人の性格がわかるらしい。どちらかと言えばネコ派の私だが、犬も捨てがたい。犬が好きな人は、従順を求める。ネコを好きな人は、ネコの気ままさにあこがれる。犬とは異なりネコは人間と対等だが、双方に共通することは一緒にいると「癒される」ということであろう。

動物の社会では上下関係がハッキリしている。ベトナム猿のオイちゃんが最初に家にやって来たとき「自分はお前より上だ」と思っていたらしく、私の言うことを聞かず、叱っても逆に大きな口を開けて威嚇してきた。しばらくして、悪さをしたオイちゃんの休を押さえつけ頭を叩き「オレはなあ、おまえより強いんだぞ」と言い聞かせた。その日以来オイちゃんは従順になり、私の肩に座って毛繕いをするようになった。猿にとって毛繕いをするということはとても重要な意味があって、服従と敬愛を意味する。

我が家のバルコニーには毎日数十匹のスズメが餌を求めてやって来る。スズメのしぐさがかわいいので一度餌をあげたら、そのうち友だちを大勢連れて来るようになった。近所迷惑を考えて知らん振りをしていると、「ホバリング」「網戸にとまる」「クチバシでガラスを叩く」「じ-っと見つめる」など、「何か食わせろよ」と催促してくる。そのため最近コンビニに行くと、スズメ(ピッチと呼んでいる)の食料(特にメロンパン)を買うようになってしまった。

井の頭公園の鯉にも、東大寺の鹿にも、浅草寺の鳩にも餌をあげるのは別として、野生の狸を見かけても食べ物を与えてしまうけれど、人が食べ物をあげることで動物の本能が衰退していくのではないかと不安も覚える。

飼い主の都合だけ、かわいいだけでペットと暮らすのではなく、動物本来の行動や本能を理解して共存してほしいと切に願う。動物と人間、ずっとお互いが良い関係でいられるように……

コラム-Vol.10 「話し上手」と「聞き上手」

「あの人はいい人だ」「あの人は悪い人だ」と言います。この「いい人」「悪い人」にはいろんな要素があり、「考え方の場合」と「性格的な場合」があります。いい人は別として、考え方の悪い人は直り、性格的に悪い人は直らないと思われます。一般的には育った環境が人の性格を決めるとも言われています。しかし「性格」の9割は生まれた時点で決まり、逆に「考え方」は9割決まってないと、拙者は思います。言い換えれば、考え方は環境で変わり、逆に性格は環境においてはほとんど変化しないこと。これはあくまで拙者の個人的な見解なのでご容赦ください。「考え方」以外に「振る舞い」や「物腰」なども「環境」と「経験」と「努力」で変わると考えます。

変えることができる「考え方」と変えることが出来ない「性格」の双方の要素が含まれる大切なものに「会話」があります。そして「性格という不変のもの」と「環境と経験と学習で変わるもの」の組み合わせ、拙者はそれが「人格」だと思っています。

人の第一印象は容貌ですが、コミュニケーションを取るのには会話が最も大切です。見た目は感じのよさそうな人だと思っても、話をすると「あれっ」と思ってしまうことがあります。しつこい人、話題がない人、口だけの人、言い訳ばかりしている人、自慢話が多い人、細かすぎる人などです。よく言う「馬が合わない」「肌が合わない」とは容貌ではなく「会話」のことです。また会話は「話しの内容」「タイミング」「声の大きさ」が大事で、相手の話が終わってから自分の感想や意見を言うのが大原則。基本的で簡単なこのやりとりができないと会話が非常に疲れ、また時には苦痛にもなります。他に価値観が合うかどうかも、快適な会話、さらにはいいお付合いができるかどうかの大事な要素でしょう。仕事では価値観が異なった相手との会話もビジネスとして割り切れますが、プライベートのお付合いでは厳しいところです。

「あの人は話し上手だ」ということがありますが、では話し上手とはどういう人のことでしょうか。話の内容が面白い人?たわいもない話を面白おかしくアレンジして話せる人? ボキャブラリーのある人? 拙者は「話し上手は聞き上手」と思っています。これはビジネスの世界でもプライベートでも通用することです。特にビジネスにおいては、やたら流暢に喋り過ぎるより、時々つまずいてしまうぐらいのほうがちょうどいいのではないでしょうか。喋りが滑らか過ぎると、話の内容や相手の状況を全く考えずに、ただマニュアルどおり喋っているだけで、この人ほんとにわかっているの?もしかしたら騙されるんじゃないか?と考えたりします。ビジネスの話は、できるだけ相手に話させる「聞き上手」、これがビジネストークの大原則ではないでしょうか。もちろんプライベートでは親身になって相手の話を聞くのが、マナーであり大原則ですが…人の事より拙者も、ビジネスにおいてもプライベートにおいても「聞き上手」になれるよう努力していきたいと思います。

今回はすこし「カタイ話」になってしまいましたが、この「カタサ」は希望も込めて拙者の人格の一部だと思いますのでご理解いただけたら幸いです。

コラム-Vol.9 やっぱり「醤油」です

目玉焼き、みなさんはどのように召し上がりますか?
1、「焼き方」はいろいろあります。両面焼き、片面焼き白身黄身共ウエルダン、片面焼き白身ウエルダン黄身半熟、片面焼き白身黄身共レアー(いわゆるぷるんぷるん状態)。簡単に言えば黄身をウエルダンにするか、半熟にするか、生か、ということです。

さらに2.「焦げ目ありか焦げ目なしか」。焼いているときに3.「水を入れるか入れないか」。
そして拙者がイチバン気になるのが4、「何をかけるか」ということです。塩と胡椒、ソース、ケチャップ、ドレッシング、醤油。

最後に5、「食べ方」です。黄身を崩す人、崩さない人。丸ごとかじる人、ちびちび切りながら食べる人。しかしこれらはあくまで拙者が知っている一般的な食べ方であり、おそらく全国には拙者が想像すらできない食べ方があると思われます。またこの料理は日本独自のものではないので、世界中にはさらに数限りない食べ方があるのは疑いの無いところです。

この食べ方の組合せを考えると天文学的な数になると思います。ということは「目玉焼き食べ方の天文学的な数の組合せ」の中から一つの食べ方を選び、拙者はそれを何十年も続けているのかと考えると感動に似たものがこみ上げてきます。ちなみに拙者の好きな食べ方は「片面焼き、焦げ目少々、白身はほぼウエルダン、黄身は半熟、水少々、かけるのは醤油のみ、すこし黄身を崩して醤油を染み込ませ白身と一緒に口の中へ運ぶ」です。同じ食べ方をする方、是非この食べ方を普及させましょう。

また拙者は醤油好きなので付け合せのキャベツにも醤油をすこしかけて食べます。目玉焼きだけでなくトンカツやカキフライなどの揚げもの系の場合にも付け合せのキャベツには醤油です。この「キャベツに醤油をかけて食べる」ということを何人かの知人に話したところ「信じられない!キャベツに醤油はないでしょう。ヘンな人!」とほとんど全員に言われました。知人は全員、ソース、マヨネーズ、ケチャップ、ドレッシングの何れかをかけて食べるそうです。話をした知人の中で「醤油派」が一人だけいました。その人はアジフライ、カキフライ6個のうちの2個、トンカツの2切れも醤油。同じ食べ方の人がいてすこしホッとしました。

和食党の拙者ですが、ほとんど毎朝、トースト、ベーコンエッグ又はハムエッグ又は目玉焼き、ヨーグルト又はヤクルト、コーヒーという朝食で目が覚め、シャワーを浴びて、ゴキゲンで仕事場に向かいます。気分はまさに「SUNNY SIDE UP」。そのときの調味料は、もちろん「SOYSAUCE」です。

ついでに「納豆のかき混ぜ方と食べ方」「朝食における生卵の食べ方」「うどんのうまい食べ方」も話したかったのですが、そうなるとあまりにも話が広がりすぎて長くなりすぎてしまうため残念ですが又の機会にします。

PS : 「温泉たまご」をご飯に乗せ、醤油を数滴垂らして食べるととてもうまいです。「生卵かけごはん」とはまた別なうまさがあります。是非一度試してみてください。

コラム-Vol.8 電車通勤

先日、いつもよりすこし早起きして久しぶりに電車に乗った。10分ほど歩いて駅に着いたら、ちょうど上りの電車が行ってしまったところだった。

切符ひとつ買うのもドキドキ。お金はどこに入れるのか、最初に金額を押すのか、人数を押すのか、乗換えを押すのか、全くわからない。結局駅員に千円渡して「広尾」までの切符を購入できた。そして切符を改札の機械に入れてから出てくるまでの一瞬の不安。改札を通ると売店があった。「牛乳でも飲もうか!」と思ったが、電車が来たのでやめた。

久々の電車通勤は拙者を新鮮な気分にさせてくれた。しかし不安もあった。「超満員だったらどうしよう」Γ痴漢に間違われないようにするには両手を高く上げていたほうがいいのか」「でもそれを40分間統けることはできない」「年配の人がいたら席を譲ったほうがいいだろう」Γ新聞は読めるのだろうか」「何時に着くのだろうか」「急行に乗り換えたほうがいいのか」「タバコは着くまでオアズケだ」

車通勤はラジオを聞いたり音楽を聴いたりすべてが自分一人の自由空間。寝癖が付いていようと無精ひげが生えていようと気にしない。しばらく風呂に入っていなくても人に迷惑はかけない。しかし電車の場合そういうわけには行かない。前夜、ニンニクを食べられない。朝、納豆にネギを入れてはいけない。

電車にはいろんな人がいる。「新聞を読んでいる人」「週刊誌を読んでいる人」「ボーっと窓の外を眺めている人」「寝ている人」「携帯で新聞を読んでいる人」「携帯でメールをしている人」これが一番目に付いた。車掌のアナウンスが入った。偶数車輌にお乗りの方は携帯電話の電源を切ってください。奇数車輌に乗っている方はマナーモードにしてください。」拙者は意味がよくわからなかった。この違いは何なのか?電源を切れというのは察しがつくが、奇数車輛は音を出さなければ通話もメールもOKなのか。それとも特別な事情がある人ほ、かかってきた相手だけは確認できるということか。考えてもやっぱりよくわからない。拙者は病院以外ほとんど電源を切ることはないし、第一その時自分が乗ったのは奇数車輛なのか偶数車輛なのかわからなかったので電源を切らずにいた。もちろんマナーモードにはしていたが。

少し前の話だが外国映画で日本人が何十人も街中に出てきて全員携帯電話で喋っている皮肉的なシーンがあった。外人からみれば日本人はみんなそういう風に見えるのだろうか。若干恥ずかしい気がした。

一緒にいるとき携帯電話をしょっちゅう確認している知人がいる。かかってきていないのに見る。メールも来てないのに見る。今はオレと一緒なんだからあまり他の人のことを考えるな、と言いたい。オレの話がよほどつまらないのか、それともその人の単なる習慣なのか知らないが、いずれにしてもあまり気分のいいものじゃない。新聞を見たりラジオを聞いているのと同じだよ。気配りや思いやりがない。いやこれは相手に対する「最低限のマナー」かも知れない。車という自由空間にいることが多い拙者も「思いやり」や「気配り」をなくさないようにしたい。

コラム-Vol.7 味とにおいの話

「味とにおい」=「口と鼻」=「味覚と臭覚」 前回は顔の一部である「目と耳」の話をしましたが、今回も韻の一部「口と鼻」で感じる「味とにおい」の話をしたいと思います。

ただいま鍋シーズン真っ盛り。そして熱爛真っ盛り。どこの飲み屋、料理屋へ行っても鍋料理が置いてあります。水炊き、あんこう鍋、ふぐちり、寄せ鍋、キムチ鍋、モツ鍋、スッポン鍋、蛤鍋、豆乳鍋、ハリハリ鍋、柳川鍋、鳥鍋、鱈ちり鍋、カモ鍋など。ちなみに拙者の場合、いろいろな種類の具を入れないシンプルな鍋、きのこと野菜だけ、豚肉と白菜だけ、豆腐と揚げとネギだけ、いわゆる「貧乏鍋」が好きです。

それなりに旨いですが鍋料理に入るかどうか拙者には疑問なのが「すきやき」「しゃぶしゃぶ」「ゆどうふ」。これには意見、いや異議がある人も多いと思われますが…ご容赦下さい。

鍋料理に限らず、食べ物の「旨い」「まずい」は舌で感じると思っている方が多いと思います。実際何人かの知人に聞いてみましたが、やはり「舌でしょう」と言っていました。がしかし、拙者は、味は9割方鼻で感じるものと思っています。熱い、冷たい以外に舌で感じるのは、辛い、苦い、酸っぱい、硬い、柔らかいだけ。いわゆる旨いまずいの判断は「におい」なのです。

みなさまも風邪をひいて味がわからなくなった経験があると思いますが、そんな時は何を食べても旨くないはずです。全く味がないのです。子供が嫌いなものを食べるとき、味=においを消すために鼻を摘みます。

旨いまずいがわからない人を「味音痴」といいますが「鼻音痴」や「臭音痴」といった方がよいのではないでしようか。

「濃い味」か「薄い味」かの好みは人によって異なります。また、その日の体調や行動によっても違います。肉体労働は濃い味、頭脳労働は薄味、寒暖の差が激しく気候の厳しい地域は混い味、比較的気候が安定していて穏やかな地域は薄味。一般的に京都は薄味と言われていますが、それは見た目の色であって、味的には「京都は濃い味」と拙者は考えます。
「うまい」には視覚的効果もあると思います。暗闇では何を食べても旨く感じないでしょう。盛付も立体的にしたほうが食欲をそそります。

とは言うものの、一人で食べる、誰かと食べる、大切な人と食べる、3日間絶食後食べる、昧が濃い薄いはどうであれ、だれが何と言おうと、どこで食べようと、食べる人が「ウマイ!」と思って食べるのがイチバンです。ね。

コラム-Vol.6 目と耳の話

あの歌の「歌詞」と「曲」のどっちが好き?と聞かれたことがあると思います。「あの歌は詩がいいんだよ」とか「やっぱりメロディーが好き」。ナンセンスな比較だ、とお思いの方もいらっしやるでしょう。一般的に歌詞重視の方が多いように思います。年齢を重ねると歌詞に感動し、そして「演歌が好き」になったりするのでしょうか。

ちなみに拙者の場合「歌は曲」と思っています。なぜなら「歌詞だけがよくて歌がヒットするなら、インスツルメンタルやクラシックを聞く人はいないはず」と考えているからです。好きな歌の曲だけを聴いても懐かしかったり、情景が浮かんだりして感動します。果たして歌の歌詞だけ読んで感動するでしょうか。

歌を作るとき最初に「曲」を作り後から歌詞を付ける場合と、いい詩があってそれに「曲」を付ける場合があるそうです。どちらがいいかはわかりませんが、きっと両方が調和したときにすばらしい歌ができるのでしょう。

本を読むのが好きな人、映画を見るのが好きな人、両方とも好きな人。「映画」は視覚的効果が大きい分想像力はあまり働きません。それに対し「本」はビジュアルがない分想像力が膨らみます。それぞれ楽しみ方が異なります。

花火大会では「夜空に咲く大輪の花」を出来るだけ近くで見たい人が多いと思います。拙者の場合、花火のどこが好き?と聞かれたら、迷わず「音」と答えます。花火を近くで見たい、いやそれ以上に爆音を肌で感じたい。だからできるだけ打揚げ現場に近づきたい。

ここまで行くと聴覚というより体感ですが、要するに「目」より「耳」なのです。

拙者は声のいい人も大好きです。目鼻立ちのいい人より魅かれます。話をしていて落ち着きます。大げさですが「目」は現実で「耳」は夢だとも思っています。

馬の耳に念仏、百聞は一見にしかず、目からうろこ、耳年増などと、聴覚より視覚がもてはやされているようですが、みなさん耳も結構大事だと思いませんかっ
MUSIC IS MY LIFE

コラム-Vol.5 ワールドカップ

1ケ月が過ぎた、あと47ケ月で開催、場所はドイツ。
みなさん察しがつくでしょうか。

随分前はヨーロッパか南米だけ、いやイングランドとブラジルだけが強かったといったほうが正しいかもしれない。今年は出場しなかったがハンガリーなど東欧がむちゃくちゃ強かった時代もあった。

1次リーグで苦しんだ韓国。わりと順調に勝ち上がった日本。その差が決勝トーナメントで明暗を分けたのか。崖っ淵から這い上がったほうに気合があった。日本の場合、選手もサポーターも16強入りですこしホッとしてスキを見せてしまったのでは…。拙者も30年以上サッカーを見ているが、「戦術」「技術」とか「審判の判定」についてここで言うつもりはない。ホームゲームはサポーター(12番目の選手)の力が大きい。不思議な力が出るのだろう。12番目の選手の中には、験を担いだ人も多かったのではと思う。「何か青いものを身につけて観戦しよう」「今日のお昼はトンカツかカツ丼にしよう」とか。「腹が減って試合中おにぎりをかじり出したら日本が失点した。食べなきゃよかったよ」と自己嫌悪に陥った人。そういう拙者も日本戦の昼には必ずトンカツを食った。そして赤飯を買った。

「攻撃は最大の防御なり」「自信を持って攻める気持ちが重要」「守ることは実質後退」6月19日の2試合を見てそう思わざるをえなかった。今年の大会は強憂国が相次いで敗退した。直径12㎝のゴールポストに当たって内側か外側かで、勝負が決まる。その数センチのずれを「技術」と言うのは酷。「運」と言ってしまえば簡単。日本代表の誰かが言った「何かが足りなかったんでしょう」と。その「何か」とはなんだろう?「自信」「経験」「歴史」「技術」「体力」「組織力」「普段の練習」「気合」「ハングリーさ」「応援]それとも「運?」。拙者は思う、選手全員の心が一致したときに得点が生まれ、一瞬でも全員が隙を見せたら失点する。力の差があるチームの対戦はこの「何か」が必ずしも結果に出ないが、力が均衡しているチーム同士の対戦はこの「何か」で勝負が決まる。選手たちはこれを「集中力」と言っている。

それにしてもWORLD CUP、予想以上に盛り上がった。
お年よりから小さな子供まで楽しんだ。みんなで応援した。

日本中で、ふれあい、歓び、悔しさ、やさしさ、驚き、怒り、感動、共有、一体感、いろんなことがあった。世界中の、サッカー、民族、国民性、価値観、が見られた。あらためてナショナリズムを感じた人も多いのではないだろうか。

サッカーはルールが簡単なところがいい。動物的な勘で動<ところがいい。だから、誰でも楽しめる。ルールは3つ…1.手を使わない。2.危険なことはしない。3.それにオフサイド。

拙者はやっと観戦1試合。あまり会場で観戦できなかったのはとても残念だが、サッカー好きとしてこの盛り上がりはうれしくもある。

最近世界のサッカーは実力に差がない。強豪国などない。紙一重のところで勝負が決まる。 2006年6月9日ドイツ、日本は今年以上に「何か」を求めて上位を目指して欲しい。7月10日にピッチに立っている日本代表を夢見て…。拙者も、もっともっとニッポンを応援しよう。

コラム-Vol.4 旅の宿 あれこれ

アウトドアシーズン到来。ハイキング、ピクニック、イチゴ狩りなど、屋外で食事したくなる季節です。これらは大概日帰りですが、キャンプとなれば何日かテントに泊まることになるでしょう。そういうアウトドア以外、みなさん温泉地などではどんなところに泊まりますか?旅館、民宿、ホテル、それともベンションでしょうか。

一般的には、目的によって泊まるところが違うと思います。「旅」というと予約もせずに行き当たりばったりで、民宿や旅館に泊まる。時には民家、いや野宿まであるでしょう。「旅行」は必ずホテルか旅館を予約しておく。もちろんメンバーによっても泊まるところは自ずと違ってくるでしょう。

予算も「寝床」に大きく影響します。料金でみると、野宿やキャンプは別として、民宿りペンション→旅館→ホテルの順に高くなっていく、こう思っているのは拙者だけではないはずです。この考えが正しいかどうかは別として、今回は寝所の「呼び名の違い」に拘ってみました。

拙者が今年気づいた「民宿」と「旅館」の違い…「旅館」にあって「民宿」になかったものを挙げてみます。

浴衣、歯ブラシ、タオル、ドライヤー、お茶飲みセット(ポット・急須・茶碗・お菓子)。椅子とテーブル。床の間。他、フトンを敷いてくれない。女将さんが着物を着ていない。食事の際、それぞれの料理が別々の器でなく一緒盛り。箸置きと箸がテーブルに置いてない(食堂のように、いっぱい刺さっている「割箸入れ」から取り出す)。

以下は辞典から

民宿…農家などが副業的に行う宿泊施設。旅館…営業として旅行者を泊める施設(旅先で泊まる家)。
ホテル…西洋風の設備・様式を整えた宿泊設備。食事は宿泊料とは別。日本風の旅館の名称としても用いられる。
ペンション…民宿風の小ホテル。
ユースホステル…青少年の旅行者のための、手軽で健全な宿泊施設。会員制を原則とする。一定の規律が要求され、禁酒・禁煙で、掃除も各自で行うのが建前。
国民宿舎…地方公共団体がわずかな費用で宿泊・休養できるように、国立公園その他景色のよいところに作った宿泊施設。

以下は拙者の主観的イメージ
低料金で利用でき、アットホームな雰囲気の「民宿」(和風)と「ペンション」(洋風)。
ほとんど温泉があり、落ち着いた雰囲気でもてなしてくれる「旅館」。
サービスが行き届き、リッチな気分になれる豪華な「ホテル」。